読了。昭和前期から現代の右翼の歴史をまとめたもの。この本では武術家の側面にはまったく触れられていないのだけど、木村篤太郎だとか石田和外などが出てきて、武術と政治の関係性に色々気付かされる。
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2022年2月18日
"「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)"(安田浩一 著)https://t.co/dJx6ReWxQK pic.twitter.com/KZDAv8elZ3
上記のようなtweetをしたら、フォロワーの方と「石田和外、最高裁長官としては非常に人気がないけど、武術家だったのか!」と少し盛り上がった
なので簡単に同書に出てくる武術・武道関係者の単語をメモしておく。
あくまでメモのため、引用の大部分をWikipediaに拠っている。参考にする際には注意されたい。
また本稿は各種出版物・web等の公開情報を基に記載したものであることを改めて明記しておきます。
- 血盟団・日本皇政会・金鶏学院(日本農士学校)
血盟団の実行部隊に武術関係者は見えないが、伊藤広という人物が、実行犯の菱沼五郎や黒沢大二を匿ったことにより懲役刑を受けている。
伊藤広は今泉定助*1という神道家が率いる日本皇政会という組織の理事であり、この日本皇政会には今泉定助の弟子であった国井善弥(鹿島神流第十八代宗家)があった。
伊藤は当初、国井の道場で、匿ってほしいという相談を行うが、道場では、人の出入りもあるため、同会で国井と同じく武道師範を務めていた大槻豊(大月流合気柔術師範。新編埼玉県史では大槻豊照。)宅に避難させ実行日まで匿った。*2*3*4
なお、大槻豊は五・一五事件にも関係者として名前が出ており*5、安岡正篤の私塾、日本農士学校で柔術や日置流弓術を指導していた。*6*7
- 木村篤太郎
法務大臣、検事総長、全日本剣道連盟会長(初代)
七高造士館時代は元宇都宮藩士小林定之に北辰一刀流を学ぶ。帝国大学法学部では、木下寿徳、山里忠徳、中山博道の師範に学んだ。出稽古に訪れた学習院院長乃木希典の相手を務めたこともあった。
1941年、大日本武徳会剣道部会長。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散し、剣道の組織的活動は禁止され、1947年5月に木村も公職追放されたが、剣道復興に尽力した。
1951年(昭和26年)、第一東京弁護士会会長。第3次吉田第3次改造内閣の法務総裁。森田政治、梅津勘兵衛と反共抜刀隊の設立を計画。1952年、10月14日、全日本剣道連盟発足と同時に会長に就任した。
1974年、会長を退き名誉会長に就任。後任の会長は元最高裁判所長官石田和外であった。1985年、奈良県の芳徳寺正木坂剣禅道場に「木村篤太郎翁像」が建立された。
日本刀を蒐集し、国宝・重文級のものはすべて財団法人刀剣博物館に寄贈した。愛刀は長曽禰虎徹興正。高齢になっても居合の稽古を欠かさず、剣道大会で居合を演武したこともあった。
政界引退後は1967年10月に自由民主党の院外団「自由民主党同志会」会長に就任し、死去するまでその座にあった。加えて街商組合(的屋の寄り合い)顧問の繋がりから院外団の政治活動の裏幹事的立場にもあった。
(この項 木村篤太郎 - Wikipedia をもとに作成)
- 石田和外
第5代最高裁判所長官。第2代全日本剣道連盟会長、一刀正伝無刀流第5代宗家。
旧制第一高等学校は佐々木保蔵の薫陶を受け、後年、佐々木の娘を妻にする。
裁判官時代に、一刀正伝無刀流の草鹿龍之介に入門。後に第5代宗家を継承する。笹森順造に小野派一刀流(弘前藩伝)も学び、免許皆伝を受ける。
1974年3月、木村篤太郎全日本剣道連盟初代会長退任により、同連盟2代目会長に就任。同年、町村金五らと大東流合気柔術幸道会創設者の堀川幸道に名人位を授与。
宝蔵院流高田派槍術、一心流薙刀術の伝承・復元の中心人物でもある(現在は宝蔵院流第18代宗家とされている)。
(この項 石田和外 (裁判官) - Wikipedia をもとに作成)
なお旧制第一高等学校では撃剣部(剣道部)山里忠徳(木村篤太郎の師の一人)が1918年(大正7年)より宝蔵院流高田派槍術と一心流薙刀術を指導していたことから、この縁で石田も両流派の伝承・復元に勤めたものと思われる。
あとフォロワーさんに教えてもらった、石田が法曹界で人気ない理由は、
・昭和44年の「ブルーパージ」(青年法律家協会所属の裁判官に対する差別人事)
昭和44年開始の,裁判所におけるブルーパージ | 弁護士山中理司のブログ
・八幡製鉄事件(会社による政治献金が適法であるかについて争われた訴訟)
によるとのこと。ブルーパージ。昔、『家栽の人』読んで知ったやつだ…
大山倍達 - Wikipedia を参照(詳しい類書も多いかと・・・)
- 曹寧柱
1913年韓国・慶尚北道の富裕な地主の息子として生まれる。1919年の三・一朝鮮独立運動などを経て、朝鮮独立の民族意識とマルクス主義に傾倒していく。
マルキストとして光州抗日学生運動にも参加、1932年に日本に渡り、京都帝大法学部に入学。
しかし、1933年の滝川事件や思想弾圧による転向者の続出の影響により、京大を退学。立命館大学に移る
石原莞爾が結成した、国家社会主義団体「東亜連盟」に所属。石原の影響を受ける。(この項松田利彦「曹寧柱と京都における東亜連盟運動--東亜連盟運動と朝鮮・朝鮮人(2・完) 」をもとに作成中。後日補記。曹寧柱と京都における東亜連盟運動--東亜連盟運動と朝鮮・朝鮮人(2・完) - 定住外国人の人権問題(旧研究第3部)研究紀要研究紀要 | 公益財団法人 世界人権問題研究センター )
- 町井久之(東声会・町井一家総長)
鄭 建永〈チョン・ゴニョン、정건영〉、1923年 - 2002年9月18日。
東声会設立者。在日本大韓民国民団中央本部顧問。
曺寧柱と出逢った事が契機となり、「大アジア主義」の思想を信奉する様になった町井は、1947年(昭和22年)に東京・銀座で町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに東声会を結成。
これは在日朝鮮人連盟(現・朝鮮総連)を牽制する狙いがあったとされる。なお、大韓民国建国後に韓国国籍を取得したが日本に住み続けた。(この項 町井久之 - Wikipedia をもとに作成)なお、後に東声会は安藤組(鹿島神流森田雅が在籍)の幹部、花形敬刺殺事件を引き起こしている。
- 大森曹玄
臨済宗僧侶・直心陰流皆伝・鉄舟会師家
明治37年(1904年)3月10日- 平成6年(1994年)8月18日
少年時代より有信館道場にて剣道を学ぶ。後、山田次郎吉に学び直心陰流皆伝をうける。1948年(昭和23年)、東京高歩院住職。 (この項、大森曹玄 - Wikipedia ならびに大森 曹玄「天地の大道に直入する剣」天地の大道に直入する剣/大森曹玄 | 全日本剣道連盟 AJKFの記載をもとに作成)。上記資料には記載がないが戦前は、大森一声の名前で右翼活動を行い、二・二六事件などにも関係したとのこと。大森曹玄(一声)氏談話速記録が記録としてあり。
---
以上簡単なメモとして。というか調べだしたらものすごく長くなりそうなので、暇な時に補記するかも。
*2:業界公論社 1968『血盟団事件公判速記録.中』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3447206
*3:みすず書房, 1963『現代史資料. 第4』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005228/80
*4:馬場義続, 1935
*5:みすず書房, 1963『現代史資料. 第5』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3005229/282