酒徒行状記

民俗学と酒など

大槻豊と大月流合気術

 先の右翼と武術で、血盟団の団員(黒澤大二と小沼正)の隠匿を手助けした人物として日本皇政会の武術師範国井善弥と大槻豊の二人の武術家を挙げた。

 国井は鹿島神流の宗家であり、現代でも有名な武術家であるが、もう一人、大月流武道(大月流合気柔術)を開いた大槻豊については現在あまり知られていない。

 いくつか先の記事とも重なるが大槻豊と彼が開いた大月流合気術について現在判明している範囲を記す。

 

 血盟団に所属し、大槻に匿われた菱沼五郎は神秘主義的な傾向があり、陳述の中で

神秘的な事が自分には沢山ある。

自分の暗殺は神秘的な暗殺である。目的を果たしたときに始めて自分を認め、団という者を認めた。*1

という上申を行い、神秘的な事の例として以下の逸話を挙げている。

 

 明治神宮に参拝して四元(義隆)*2と別れた。そのときふと大槻豊の勤王党の陣羽織を入れたトランクが知人の家に預けてあったのを思い出し陣羽織を取りに行った。

 するとトランクの中に八月会合の時海軍連中が印刷した檄文を二、三枚発見した。

 之が官憲に没収されたならば、海軍の五・一五はおそらくは決行できなかったと思ふ。

 現前たる神助である。*3

 菱沼五郎が明治神宮に参拝した正確な時期は不明だが、八月会合*4とあることから、1931(昭和6)年8月~昭和7年初めごろの間と思われ、この時期大槻豊は勤王党という組織に属していたことがわかる。

 この勤王党の詳細は不明であるが、筆者の推測では、大槻の所属していた日本農士学校(安岡正篤)の関連組織ではないかと思われる。*5

 

 五・一五事件以降の大槻のその後については不明だが、弟子の武田正中の略歴では

 昭和7年  金鶏学院(現東京都文京区小石川)、日本農士学校(埼玉県比企都嵐山町)に於いて柳生流剣術および大東流合気柔術を学ぶ。

 昭和9年  柳生厳長師範の内弟子として柳生新陰流を修行し、免許皆伝を受領。大槻 豊師範の内弟子として大月流合気柔術日置流弓術を修行し、免許皆伝を受領。*6

 とあり、昭和9年ごろまでは、大槻が日本農士学校で指導を行っていたことはほぼ確実である。

 また、武田正中の経歴では

 昭和17年 日本農士学校の学生監、武道教師に就任。

 とあり、これは大槻の弟子筋としての採用と考えられる。

 あるいは、この前後位迄、大槻豊は日本農士学校で指導をしていたのではないかと思われる。

 

 大槻の弟子の武田正中の経歴も興味深く

昭和11年 満州 新京にて、富木謙治氏と共に、合気柔術・柳生流の広流に努めた。
昭和16年 国立拓南塾*7(後の大東亜錬成院)(現東京都小平市)補道官に就任。
      武道教官として合気柔術を教導。
      同時に塾監 中崎辰九郎範士より伯耆居合術の免許皆伝を受領。

 とあり、当時の武術家の

  1.国内の著名な道場や国粋的な道場で稽古をする。または内弟子などになる。

  2.満州に渡り流派の普及活動を行う。

  3.戦時下の人材育成機関で武道教育を行う(教育者同士で武術の稽古を行い段位や免許を受けることもあった)

 といったライフコースの一つが伺える。

 

 この大槻豊の大月流武道(大月流合気術)は武田正中に伝えられた後、現在では岡山県高梁市合気道備中正中会が「淡路島の大月流合気柔術および柳生新陰流 武田正中師範の指導を受け、大きな影響を受けた」としている*8

 また大月流合気柔術の解説書として武田正中が

 昭和60年に『古武道-大月流合気柔術解説・柳生新陰流解説・伯耆居合術解説 』(武田正中 凸版印刷株式会社 昭和60年)を刊行しているが、筆者は未見である。

『古武道-大月流合気柔術解説・柳生新陰流解説・伯耆流居合術解説 』(武田正中 凸版印刷株式会社 昭和60年)

『古武道-大月流合気柔術解説・柳生新陰流解説・伯耆居合術解説 』(武田正中 凸版印刷株式会社 昭和60年)*9

 

 

 大槻豊については日本農士学校の資料に何か記録があるかもしれない。また、武田正中については、子孫の方がご存命であり、 

おじさんの武田正中さんは、淳仁天皇陵の管理(国家公務員と聞いた覚えがある)に行っていたし、今も孫と河野家の当主が、淳仁天皇陵の管理に行っている。

 武田家には、柔道場があり、家のタンスにはたくさんの日本刀があるのを覚えている。

awajimihara-dosokai-kobe.jimdofree.com

とエッセイを書かれている。

ご遺族の方で何かご存じなことがあるかもしれない。

 

◆追記1

 上記記事を公開後、林信天  Nobu Hayashi (@NobutakaHayash9) 氏が以下のようにつぶやかれてるのに気がついた。筆者は目録を見ておらず、また大東流にも詳しくないため詳細は不明であるが、これによると技法としては大東流とほぼ同じ内容であったことが伺われる。

 後年、富木謙治(合気道)と一緒に、弟子の武田正中が満州で大月流の広流をやっていることを考えると、当時は合気道大東流といった流派の垣根はあまり意識されていなかったのかとも思われる。

 

 

◆追記2

 邪武 @xiewu 氏より『古武道-大月流合気柔術解説・柳生新陰流解説・伯耆居合術解説」に大槻豊の肖像写真が掲載されている旨、ご教示ただいた。

 

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 大槻豊の肖像写真。

 また、同ページ下部はチャンドラボースと武田正中が並ぶ写真である。

 満州で自流の広流につとめた武田正中の人脈の広さが伺われる。

 

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 また、同書には朝鮮で親日家としても知られた、天道教の崔麟を迎えた写真も掲載されている。

 大阪の料亭灘萬(現、なだ萬)で撮影された写真であるが、朝鮮式の宴会と服装になっているのが面白い。

 

 情報提供いただいた、林信天Nobu Hayashi (@NobutakaHayash9)氏、邪武@xiewu氏には改めて御礼申し上げます。

*1:みすず書房『現代史資料.第5』p.506 菱沼五郎上申書

*2:四元義隆 - Wikipedia

*3:前掲書p.507 菱沼五郎上申書

*4:1931年8月、郷詩会の名で行われた桜会急進派と血盟団五・一五事件関係者の会合

*5:朝日新聞1932年3月10日夕刊「古内、日召の捕縛近し 警視庁、漸次に確証をつかみ 射殺事件の黒幕捜査」では「国学者権藤成卿を警視庁に召喚参考人として詳細なる取り調べをするとともに一方○○○○党首大槻豊氏を喚問」と伏字で表現している。筆者の推測では大槻そのものよりも、安岡正篤を憚って伏字にしたのではないかと思う。

 また「陣羽織」であるが、日本農士学校の制服にある「制服は和服着袴(生地木綿。袴は黒色)とし羽織は紋付とす。実習には制定の農道着を用ふ」(1934年11月25日朝日新聞朝刊「農民道場を観る(6) 日本精神鍛練場 農士学校と農民講道館関口泰<写>」)羽織を指すのかもと思っている。また、陣羽織と共に発見された檄文は、五・一五事件の時に作成された檄文の元案ではなかったかと思われる。((参考 五・一五事件「檄文」 - Wikisource 

*6:武田正中師範について http://www.takahashiseikei.jp/takedashihan.html 

*7:拓務省が東京都小平市に開いた人材養成機関。一八歳(中等学校四年終了)以上を対象に二年間の教育訓練を施して、「南方に活躍する若き人材を育成する」とされた。参考 小平市史 近現代編 第四章 戦時開発と町制施 

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1321105100/1321105100100030/ht002010

*8:

www.takahashiseikei.jp

*9:表紙画像はメルカリより

https://jp.mercari.com/item/m23098161444

4万円か…