酒徒行状記

民俗学と酒など

【作成中・いずれ追記】湯島聖堂の中国料理研究部をめぐって(1)中国料理研究部を主宰した原三七について

はじめに

 先日、ヒロオカ@shirlywang氏(広岡今日子氏)が、幼少期、湯島聖堂の中国料理研究部で食事をされた写真とツイートをtwitterに上げられた。

 湯島聖堂の中国料理研部とは、中国料理研究をやっていると必ず出てくる組織で、日本の中国料理普及に大きな影響を与えた組織である。

 自分は冗談めかして、こんなツイートをしたが*1、たとえば「中国料理の50年」(月刊専門料理2016年5月号)などでは

 1950年代後半 湯島聖堂内「書籍文物流通会 料理部」が活動 

 中国の文学・美術が専門の研究者、原三七が東京の湯島聖堂内に開いた「書籍文物流通会を母体に、教え子である中山時子を中心に「料理部」が作られた。中国の本場の料理の研究と実践に力を入れる。書物を紐解き料理部のメンバーで料理を作成。小冊子『中国菜』の刊行、講習会開催などの活動を行った。

として紹介されている。

  自分もこの団体については上記の教科書的な概略とこの中国料理部で修業した料理人が中国料理界の重鎮として存在していたことしか知らなかったので、これを機にいくつか中国料理研究部を調査してみようと思う。

 割と長くなりそうなので分けつつ、まずは、母体である原三七(はら・さんしち)の情報から。

原三七の略歴

 1904年生まれ。中国文学研究者。元代の戯曲を中心に研究。
 1931年東京帝国大学文学部大学院を修了後、北京にわたり、40年より北京大学で戯曲を教える。
 終戦により帰国。二松学舎大学の教授、『斯文』の編集の傍ら、書籍流通文物交流会を興し、「中国文化を知るためには、中国料理を知らねばならない」との信念のもと、「中国料理研究会」を立ち上げ、中国料理の普及に努める。
 昭和42年没

著作リスト

  • 雜録 山陽先生百年祭の回顧 / 原三七/p64~72 (斯文14(1) 斯文会 1932年1月):昭和6年頼山陽没後100年を記念して、全国で行われた頼三陽百年祭の記録を書く。
  • 汲古閣刻板考稿 / 原三七/p493~565(東方学報. 6[461] 東方文化学院 1936年2月):中国の蔵書家・出版家、毛晋の刻板と案語を記す。
  • 支那文化論叢 陳衡哲 編,石田幹之助 訳 生活社 1942:四章 「劇」(余上元述)を訳す。
  • 戰後の北平學界 / 原三七/22(中国語雑誌 4(1) 帝国書院 1949年1月):未読
  • 文求堂主の逝世を悼む/原三七/6~7(日本古書通信. 19(3)(296) 日本古書通信社1954年3月15日):未読
  • 元曲/原三七/137 (中国文学史の問題点 竹田復, 倉石武四郎中央公論社 1957):元曲について概説を述べる。
  • 「脚色」語義考稿(原三七) (二松学舎大学創立八十周年記念論集 二松学舎大学 1957):中国の戯曲における「脚色」の語義について、中国では「出仕時の履歴書」「役割」「俳優」「仕組み」の4つの語義があり、日本においては「仕組み」の意味から転じてdramatizationの訳語として「脚色」の語が使われるようになったとする。
  • 一人一言 / 高田眞治 ; 嘉治隆一 ; 內野熊一郞 ; 原三七 / p63~66 (0034.jp2) (斯文 (20) 斯文会1958年2月):詳細は後述。1957年中華人民共和国北朝鮮に招待された際の記録。
  • 書評 八木澤元著「明代劇作家研究」 / 原三七 / p84~84 (0044.jp2) (斯文 (28) 1960年10月):八木澤元の「明代劇作家研究」への書評。八木澤が鄭振鐸の「古本戯曲叢刊」について着目したことを評価している。
  • 今西博士蒐集朝鮮関係文献目録 原三七 編 (書籍文物流通会 1961):朝鮮史家の今西龍(京都帝国大学)が収集した朝鮮関係の文献目録。
  • 中国戯劇脚色研究史上の一断面 : 姚梅伯と王静安 原三七 著 (書籍文物流通会 1961):中国戯劇史研究者姚梅伯と王静安の研究を紹介するとともに、中国戯劇の各語彙について考察する。

 これらの著作一覧を見ると、戦前よりすでに中国戯曲研究の大家となっていたようである。戦後は『斯文』に寄せた翻訳や書評といった短い記事が多く、原の研究内容を示すまとまった論文は「中国戯劇脚色研究史上の一断面 : 姚梅伯と王静安」くらいであり、論文を書くというよりも、中国研究の重鎮として『斯文』の運営などを中心に活動していたものと思われる。

 戦後の原の文章として、特筆すべきは、斯文 (20)の一人一言のエッセイ一人一言で記された「張主席との歓談」である。
 原は1957年中華人民共和国北朝鮮に招待され、張奚若(国務院教育部長)との宴席で故宮の展示の感想を求められ、原は「元あった種々の名品が影を潜めてはゐるが、元はなかった幾多の珍品が加わってゐるのは盛観を呈している」と少し嫌味な評を述べる。
 原によると「元はなかった珍品」とは「元満州国秘蔵の刺繍の類等と毛主席など顕官が外遊した時諸外国から贈られた珍品を私していない証拠なのでせうかこまごましたものに至る迄一般の閲覧に供してゐる」とのことで、蒋介石が台湾撤退に伴い故宮の文物の重要品を台湾に移してしまい、中華人民共和国故宮には(戦前の故宮を見た原からは)大したものが残っていなかったことがよくわかるエピソードである。また、「元満州国秘蔵の刺繍」という記載は、「蒋介石はあまり満州国の文物にはあまり興味がなかった(だから大陸に置いてった)」ことをうかがわせる。
 なお、中国側は原の評について「元はなかった珍品」には触れず、前者に就いて「解放台湾,就可以解決了。(台湾が解放されればこの問題は解消するのだ)」とのみ回答。 
 中華人民共和国側も、台湾に故宮の文物が持ち出されたことを問題視していたことが伺える。
 後段では、八面槽の萃華樓*3で行われた張奚若と老舎を含めた宴会を記す。
 張が「(日本側の)13名の団員の方々は旧中国に親しみの多い方が少ないようであるが、何卒旧中国に較べて新中国をよく観てくださるやうにお願ひする。その点に就いては旧中国に親しみの深い原団長の十分のご指導をお願いする」とあいさつしたのに対し、原は、
(筆者注:新中国を見るに)子供専門のデパートがあって、新中国ではいかに子供を大事にするかを感じた。旧中国では子供の服装は大人の者を小さくしただけ、玩具もちょっとひねった程度のものしかなかった。中国文学では子が親を思う作品は豊かだが、親が子を思う詩文詞曲はどうか」
 と返す。張は「子を臆う親の心は旧中国も新中国も同じである」と語気荒くこれに答え原は「嗚呼、張先生も7年前までは旧中国の人であったのである」として、張を評し褒める。
 このやりとりは、原の意識として、国家やイデオロギーの変遷よりも連綿と続く中国文化にシンパシーを感じていたように感じられる。
 原はこの時二か月ほど、中国に滞在するが、
 二箇月間、連日の御招宴のうち、旧中国の儀礼にもかなって、ご馳走いただけたのはこの晩(張奚若と老舎を含めた宴会)と、北京とお別れの宴に副主席呉含先生(北京市副市長)が御主人役をつとめられた時と唯の二回であった。
とする。
 これも原が旧中国からの伝統に惹かれていたことを示す語であると思われる。
 なお、原がこの時面会した、老舎も呉含も、こののち文化大革命により悲劇的な死を迎える。
 資料はないが、原は彼らの死について、非常に悲しんだのではないかと思われる。

原三七に関する論考など

  • 和漢洋書籍10万冊、湯島聖堂に・引揚漢学者の苦労・原三七氏/六八八新聞集成昭和編年史 昭和29年版 1 (昭和29年2月21日の記事)
  • 湯島聖堂・原三七と冊子「中国菜」 戦後日本における中国食文化の普及・啓蒙をめざして (重森貝崙 研究 岩波映像 2010)
  • 〔あまカラ〕と〔中国菜(ちゅうごくさい)〕 : 戦後日本における食文化冊子の東西比較(その2)青木正児および〔中国菜〕の発行人・原三七と奥野信太郎などの寄稿者を中心に(重森 貝崙 中日文化研究 (4) 2016 p.1-15)
  • 原三七先生と文徳書房 (中山時子先生を偲んで ; 中山時子回想録 日中文学文化研究学会通信 : 2014年4月~2015年3月) (日中文学文化研究 (6・7) 2018 p.100-103)
  • 日中文学文化研究学会通信8月号 湯島聖堂の中国料理 中山時子(日中文学文化研究学会通信2014年8月号(日中文学文化研究学会2014年8月8日)1 日中文学文化研究学会通信8月号 湯島聖堂の中国料理 中山時子

 上記論考は、中山時子のものを除いてまだ未読である。

 こちらについては、いずれ読んで追記をしたいと思う。

 

 以上、現在のところ判明した原三七の概略である。

 次は原が主催した書籍流通文物交流会について調査をしてみたい。

*1:食戟のソーマ』の喩えが良かったのか、自分でも思わぬほど、92件のリツイート、288件のいいねとツイートが伸びた。中国料理研究部、戦後の中国料理界を舞台に小説や漫画が書けそうなくらい個性のある参加者が多いので、『食戟のソーマ』の喩えはあながち誤ってないと思っている。原三七は学園長ポジション…そうすると中山時子先生がヒロインポジション…?(不敬)

*2:この項、「湯島聖堂中国料理研究部のこと」(『Danchu』2022年1月号、中山時子「湯島聖堂の中国料理」(日中文学文化研究学会通信8月号)をもとに記載

*3:北京王府井にある老舗レストラン。山東料理のレストランとして有名。萃华楼_百度百科