はじめに
昔湯島聖堂で中国料理を出していたというのはほとんど伝説のような話になっていますが、実は私はガキの頃一度だけ親戚一同と行ったことがあります。爺さんに抱かれている女子が私ですが、なにせガキなので味がどうとか全然覚えてません。杏仁豆腐が出たことだけは覚えています。 pic.twitter.com/vtkVgIlGId
— ヒロヲカ (@shirlywang) 2022年7月26日
湯島聖堂の中国料理研究部とは、中国料理研究をやっていると必ず出てくる組織で、日本の中国料理普及に大きな影響を与えた組織である。
中国料理関連の資料を読んでいると必ず出てくる、湯島聖堂の中国料理研究部。
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2022年7月26日
そこで研鑽を積んだ人々が、中国料理の大家として今でも存在しているという『食戟のソーマ』並みの設定が、実は日本の中国料理界にはあるのです。
自分は冗談めかして、こんなツイートをしたが*1、たとえば「中国料理の50年」(月刊専門料理2016年5月号)などでは
1950年代後半 湯島聖堂内「書籍文物流通会 料理部」が活動
中国の文学・美術が専門の研究者、原三七が東京の湯島聖堂内に開いた「書籍文物流通会を母体に、教え子である中山時子を中心に「料理部」が作られた。中国の本場の料理の研究と実践に力を入れる。書物を紐解き料理部のメンバーで料理を作成。小冊子『中国菜』の刊行、講習会開催などの活動を行った。
として紹介されている。
自分もこの団体については上記の教科書的な概略とこの中国料理部で修業した料理人が中国料理界の重鎮として存在していたことしか知らなかったので、これを機にいくつか中国料理研究部を調査してみようと思う。
割と長くなりそうなので分けつつ、まずは、母体である原三七(はら・さんしち)の情報から。
原三七の略歴
著作リスト
- 雜録 山陽先生百年祭の回顧 / 原三七/p64~72 (斯文14(1) 斯文会 1932年1月):昭和6年頼山陽没後100年を記念して、全国で行われた頼三陽百年祭の記録を書く。
- 汲古閣刻板考稿 / 原三七/p493~565(東方学報. 6[461] 東方文化学院 1936年2月):中国の蔵書家・出版家、毛晋の刻板と案語を記す。
- 支那文化論叢 陳衡哲 編,石田幹之助 訳 生活社 1942:四章 「劇」(余上元述)を訳す。
- 戰後の北平學界 / 原三七/22(中国語雑誌 4(1) 帝国書院 1949年1月):未読
- 文求堂主の逝世を悼む/原三七/6~7(日本古書通信. 19(3)(296) 日本古書通信社1954年3月15日):未読
- 元曲/原三七/137 (中国文学史の問題点 竹田復, 倉石武四郎 編 中央公論社 1957):元曲について概説を述べる。
- 「脚色」語義考稿(原三七) (二松学舎大学創立八十周年記念論集 二松学舎大学 1957):中国の戯曲における「脚色」の語義について、中国では「出仕時の履歴書」「役割」「俳優」「仕組み」の4つの語義があり、日本においては「仕組み」の意味から転じてdramatizationの訳語として「脚色」の語が使われるようになったとする。
- 一人一言 / 高田眞治 ; 嘉治隆一 ; 內野熊一郞 ; 原三七 / p63~66 (0034.jp2) (斯文 (20) 斯文会1958年2月):詳細は後述。1957年中華人民共和国と北朝鮮に招待された際の記録。
- 書評 八木澤元著「明代劇作家研究」 / 原三七 / p84~84 (0044.jp2) (斯文 (28) 1960年10月):八木澤元の「明代劇作家研究」への書評。八木澤が鄭振鐸の「古本戯曲叢刊」について着目したことを評価している。
- 今西博士蒐集朝鮮関係文献目録 原三七 編 (書籍文物流通会 1961):朝鮮史家の今西龍(京都帝国大学)が収集した朝鮮関係の文献目録。
- 中国戯劇脚色研究史上の一断面 : 姚梅伯と王静安 原三七 著 (書籍文物流通会 1961):中国戯劇史研究者姚梅伯と王静安の研究を紹介するとともに、中国戯劇の各語彙について考察する。
これらの著作一覧を見ると、戦前よりすでに中国戯曲研究の大家となっていたようである。戦後は『斯文』に寄せた翻訳や書評といった短い記事が多く、原の研究内容を示すまとまった論文は「中国戯劇脚色研究史上の一断面 : 姚梅伯と王静安」くらいであり、論文を書くというよりも、中国研究の重鎮として『斯文』の運営などを中心に活動していたものと思われる。
(筆者注:新中国を見るに)子供専門のデパートがあって、新中国ではいかに子供を大事にするかを感じた。旧中国では子供の服装は大人の者を小さくしただけ、玩具もちょっとひねった程度のものしかなかった。中国文学では子が親を思う作品は豊かだが、親が子を思う詩文詞曲はどうか」
とする。
原三七に関する論考など
- 和漢洋書籍10万冊、湯島聖堂に・引揚漢学者の苦労・原三七氏/六八八新聞集成昭和編年史 昭和29年版 1 (昭和29年2月21日の記事)
- 湯島聖堂・原三七と冊子「中国菜」 戦後日本における中国食文化の普及・啓蒙をめざして (重森貝崙 研究 岩波映像 2010)
- 〔あまカラ〕と〔中国菜(ちゅうごくさい)〕 : 戦後日本における食文化冊子の東西比較(その2)青木正児および〔中国菜〕の発行人・原三七と奥野信太郎などの寄稿者を中心に(重森 貝崙 中日文化研究 (4) 2016 p.1-15)
- 原三七先生と文徳書房 (中山時子先生を偲んで ; 中山時子回想録 日中文学文化研究学会通信 : 2014年4月~2015年3月) (日中文学文化研究 (6・7) 2018 p.100-103)
- 日中文学文化研究学会通信8月号 湯島聖堂の中国料理 中山時子(日中文学文化研究学会通信2014年8月号(日中文学文化研究学会2014年8月8日)1 日中文学文化研究学会通信8月号 湯島聖堂の中国料理 中山時子
上記論考は、中山時子のものを除いてまだ未読である。
こちらについては、いずれ読んで追記をしたいと思う。
以上、現在のところ判明した原三七の概略である。
次は原が主催した書籍流通文物交流会について調査をしてみたい。