酒徒行状記

民俗学と酒など

関西将棋巡り(下)

 関西将棋会館とイレブンを後にした翌日、私は、通天閣に関西に住む友人と行った。

 友人はずっと関東住まいであったが、最近京都に就職が決まって上方に移った人間で、ようよう京都には慣れてきたが、大阪はあまり来たことなく、まだ通天閣も上ったことないという。

 前日、北新地のええとこでのんだし*1、そんなら今日は通いなれた新世界を、友人に案内しようというのが一つ、そしてもう一つは、将棋巡りのついでに通天閣の下に阪田三吉を記念した王将碑があるのを見に行こうと思ったのであった。

(1)阪田三吉将棋碑

 現在、日本では、全国のプロ棋士の統一連盟として「日本将棋連盟」がある。

 しかし、1930年代までは東京将棋連盟、関西将棋研究会、棋正会といった、さまざまな団体が存在していた。

 いわば統一リーグがなく、各地にプロリーグがある群雄割拠の状態であった。

 阪田三吉は。戦前関西の将棋界「関西将棋研究会」の代表として、東京の東京将棋連盟と渡り合っていた棋士である。

 彼が率いた関西将棋研究会は最後まで、東京を中心とした日本将棋連盟(関西の将棋リーグの一つ棋正会が先に東京将棋連盟と合流したため、東京中心の組織だが日本将棋連盟と名乗っていた)に抵抗し、関西の雄として名を馳せていた。

 通天閣の下にある王将碑は彼を記念した碑であり。この碑自体も、巨大な王将の駒をそのまま石碑にしているのもユニークであるが、実はより面白いのは、そこのすぐ横に、将棋の盤面を示した碑がある点である。

 

王将碑

「銀が泣いている」投了図

 この盤面は、大正2年阪田三吉の終生のライバルである関根金治郎八段との香落ち戦の投了図(阪田三吉の勝利)を再現したものである。

 

 この一戦で阪田三吉は有名な「銀が泣いている」という言葉を残している。

 私はこの言葉、相手が銀をうまく使いこなせていないのを咎めた言葉(「(お前の)銀が(活用してもらえず)泣いている」)だと思っていたが、違っていて、

 

1913年(大正2年)に行われた宿敵、関根金次郎との対局。この対局において、関根金次郎の挑発的な手に対して、阪田三吉は「銀」(銀将)を動かします。阪田としてはその銀を関根に取ってもらうことで、香車を動かして攻めに転じようという腹でした。ところが、関根がその意図を読んでいて、取ってくれない。銀は「取ってくれ。いっそ殺せ!」と叫んでいるのに、敵は殺してくれない。それで彼は「銀が泣いている」と言ったのでした。(安次嶺隆幸 伝説の棋士・阪田三吉の名言「銀が泣いている」に込められた想いとは?|将棋コラム|日本将棋連盟

 とのことで、銀を囮にしたが、関根がそれに乗ってこなかったというのを示したものだった。

 阪田は自分でも

後日そのときを振り返って、朝日新聞紙上の「将棋哲学六、阪田名人実話」で、阪田本人はこう述懐しています。

「(あの銀は)ただの銀じゃない。それは阪田がうつむいて泣いている銀だ。それは駒と違う、阪田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に阪田の魂がぶち込まれているのだ。その駒が泣いている。涙を流して泣いている。今まで私は悪うございました。強情過ぎました。あまり勝負に焦りすぎました。これから決して強情はいたしません、無理はいたしません、といって阪田が銀になって泣いているのだ」(同上)

と語っているが、なかなか詩的に過ぎて、今の私にはちとわかりかねる。棋力が上がればわかるのかしらん。

 この時の解説はこのサイトが詳しい.

 

blog.goo.ne.jp

 これによると、泣いてた銀も終盤で生きてくるし、むしろ▲4八角の方が重要な手のようだけど、なぜ銀ばかりが注目されるのか、今の私にはわからない。

 「阪田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に阪田の魂がぶち込まれているのだ。その駒が泣いている。涙を流して泣いている」といわれても、囮作戦が効かなかったので泣いてるだけで、ウソ泣きちゃうのん、とつい思ってしまう。*2

 もちろん、この碑は投了図なので、せっかくの銀もとられてしまっているし、ご覧の通り碑自体ぼろぼろなのも残念である

 でも、投了図という、あまりない碑なので、ぜひ保存して残してほしいとも思う(あるいはデジタルサイネージと組み合わせて、初手から投了図まで画面で流すとか…)

 

 (2)三桂クラブと遠藤君ちのおじいさんの記憶

 さて前回、今回とつらつら関西の将棋巡りをした話を書いたが、そもそも私はそんなに将棋が好きではなかった。

 私は、小学校のころ、父が海外に単身赴任でおらず、母も共働きだった。そして、私は母が仕事から帰ってくるまで、同じマンションの友人の家に預けられていた。

 母が毎月いくばくかのお礼のお金を渡して、夜、同じマンションの友人宅で晩御飯をいただくのである。

 そんななか、同じマンションの小学校の友人に遠藤君という友人があった。この家はご家族の多い家で、ご両親と子ども3人と、一人、70歳くらいのお爺さんがいた。 

 そしてこのお爺さんが近所でも知られた将棋好きだった。棋力がどこまであったかとかアマ何段だったかとかは私も知らない。でもたぶん近所でも強いことで有名であった。

 そして私は、母から「遠藤君のお宅に預かっていただくのだから、お爺さんから将棋を習いなさい」と言われ、私はやむなく遠藤君のお爺さんから将棋を習う羽目になったのだった。

 

 礼をした後、駒の並べ方(たしか大橋流でやらされた)をまず教わり、次に駒の動かし方を教わる。

 それを覚えたら、矢倉から始まって駒組みの手順を教わって、おじいさんと駒落ちで対局をする。一般的な将棋道場に行ったことがないからわからないが、遠藤君のお爺さんの教え方はこんな手順だった。

 そして遠藤君のお爺さんは、礼儀や無駄手に厳しい人だった。

 一度指してる最中、どうしても次の手が思い浮かばなくて、端歩(たしか▲9六歩だった)をついたことがあった。

 なぜ端歩をついたかは理由は覚えていないが、もしかしたら対局前に読んだ入門書に「手のない時は端歩をつけ」というのをあったのを覚えていたのかもしれない。

 ところが、おじいさんは私の端歩を見た瞬間

「なんだ、その端歩は、そんな無駄手さすんじゃねえ。どうするかちゃんと考えて指せ。おめえはやる気があるのか」と江戸弁で、ものすごく怒られたのだった。

 今から思えば、ようよう駒の動かし方と駒組を覚えた初心者である。

 何もそこまで怒らなくてもいいとも思うが、まあ遠藤君のおじいさんは、やかましい江戸っ子であった。

 

 そんなこんなが何度かあり、もとよりこちらは親に言われて、始めた将棋である。叱られれば嫌いになるし、出来る事なら将棋なんぞより友人とファミコンやゲームがやりたい。遠藤君のおじいさんとの将棋も半年たたずくらいででやめてしまった。

 

 さて、そんな過去の記憶を思い出したのが、大阪は新世界の三桂クラブである。

 三桂クラブは、大阪の新世界、ジャンジャン横丁の中にある将棋道場である。ジャンジャン横丁も今はだいぶ新しい店が増え、また観光客向けの明るい店も増えたが、この将棋道場は戦後の怪しいジャンジャン横丁の雰囲気を今に残す店である。

 

www.nikkei.com

   私自身、新世界やジャンジャン横丁の飲み屋が大好きで、よく行くが、この三桂クラブは前を通るだけで、入ったことはなかった。

 しかし今回せっかく、将棋巡りで関西に来たのだし、一度くらいは入ってみようと思ったのが良くなかった。ここで相手をしてくれたお爺さんが非常に口の悪いジジイだったのだ。

 

 このジジイ、当然三桂クラブで長年指しているのだから、棋力は私なんぞとは比較にならないほど強い。(こちとら、小学校で遠藤君のお爺さんに習って以来、将棋はせず、ようよう最近一か月前くらいに少しアプリをやりはじめたくらいの棋力である。)

 

 当然私はぼろ負けはするわけだが、このジジイ、指してる間中

 「お前の頭は置物と一緒やな」「もう小学生じゃないからこれ以上強くはならんなあ。言うてもわからんと思うけど」「小学生じゃないからもう無理だ」などと指してる間、ずっと大阪弁で悪口の盤外戦術を仕掛けてくるのである。

 三局指してもらって、最後はほとんど指導対局であったが、私はジジイのあまりの悪口の羅列に、悄然として店を後にしたのだった。

 へぼ将棋を指す私が悪いのであるが、それにしても大阪のおっちゃんの悪口はひどく応えたのであった。

 

 その後ふらふらと「酒の穴」*3

に入り、傷心をいやしていたが、飲みながら「子供のころも、将棋指しながら、似たようなこと言われたなあ」と、遠藤君のおじいさんのことを思いだしていた。

 

 今から思えば、私は遠藤君のお爺さんにもっと将棋を習っておくべきであった。もう鬼籍に入られたことと思うが、改めて最近将棋を覚えようと思う現在、なぜあの小学生の時にちゃんと教わっておかなかったかと少し後悔である。

 遠藤君のお爺さんからは矢倉の組み方、穴熊の組み方、美濃囲いの時に端歩を上げて王の逃げ道を作っておくことや、桂馬の高飛び歩の餌食という格言や、角頭歩戦法なんかを習ったが、その後ついぞ忘れてしまっていた。

 くそー、もう少し習った手を覚えておけば、あそこまで悪口言われずに済んだのに…

 

 また勉強しなおして、こんど三桂クラブに行ったら、あの口の悪いジジイにリベンジマッチを申し込みたいと思っている。

 あの口の悪いジジイ、ガンで先行き長くないとかほざいていたけど、リベンジマッチできるまで、くたばらずに生きてろよ思っている。

*1:とある方にキタのいいフレンチの店を紹介してもらった。聞けばアルザスで修業された方とのこと。今年一番うまいワインをのんだ気がする。ビストロケ ヤマネ (Bistroquet YAMANE) - 北新地/ビストロ | 食べログ

*2:なお、人によっては8六銀は敵陣で銀が立ち往生した悪手であり、そのことが悔しくて「泣いている」という説もあるようである。また泣き銀の一局はこの局ではないとする人もある

将棋の豆知識85〜86 光風社 将棋101話 転用 

*3:新世界の居酒屋。

1000bero.net

 安くてうまくてとても良い。昼酒をしていてホイットニー・ヒューストンの自殺をしったのもこの店だった。