酒徒行状記

民俗学と酒など

誠之助の死

 関川夏央谷口ジローの明治五部作、『坊ちゃんの時代―凛冽たり近代なお生彩あり明治人』の第5作目『不機嫌亭漱石』を読んでいたら、大石誠之助という人物が出てきた。
 大石誠之助は紀州の医師であったが、大逆事件幸徳秋水らとともに死刑に処せられた人物である。大石はアメリカ留学・インド周遊を通して医師のヒューマニズムに基づく感情から社会主義に共感を覚えるが、決して急進的な無政府主義を取る人物ではなかった。しかし、当時の社会主義の中心的人物で無政府主義者と目される幸徳秋水と、一夜、熊野川で舟遊びをしたことが、大逆への密議ととられて、幸徳と共に死刑に処せられたのであった。 
 本来は幸徳秋水・管野スガを扱った第4部『明治流星雨』に主にかかわる人物であるが、上記のような思想立場であったため幸徳らの視点を中心に書いた4部では登場するだけにとどめ、人となりのスポットが当てられるのは第5部の夏目漱石の(病による)回想のシーンである。
 5部には彼の獄中から妻への手紙を元にしたセリフが語られる。
  「どんなに辛いことがあろうと、其の日か遅くとも次の日には物を食べることがなぐさめを
得る第一歩だと古人は申したけれど…お前もこの際くよくよと思って家に引きこんでばかり居らず髪も結い着物を着替えて親戚や知る人の家へ遊びに行って世間の物事を見聞するがよい。そうすれば自ずと気も落ち着いて安らかになるだろう」

 なんとも優しいいたわりに満ちた言葉である。
 ただ、漫画なのでいくらか改変がある。興味を持ったので元の手紙をあたってみた。

「ある人の言葉に『どんなにつらいことがあろうとも、其日かおそくとも次の日には物を食べなさい。それがなぐさめを得る第一歩です」という事がある。お前もこの際くよくよと思ってうちに引こんでばかり居ずと、髪も結い、きものを着かえて親戚や知る人のうちへ遊びに行って、世間の物事を見聞きするがよい。そうすればおのずと気も落ついて安らかになるだろう。そしてうちをかたづける事など、どうせおそくなりついでだから、当分は親類にまかせて置て、今はまあ自分のからだをやすめ、こころを養う事を第一にしてくれ。○私はからだも相変わらず、気も丈夫で、待遇はこれまでの通り少しも変った事はない。○こうして何ヵ月過すやら、何年過ごすやら、又特別の恩典で出して貰う事があるやら、そのへんの所も、すべて行末の事はなんともわからないから、決して気を落とさぬようにしてくれ。○他に差あたって急ぐ用事もないから、今日はこれだけ。」(明治44年1月19日大石栄子宛 『大石誠之助 大逆事件の犠牲者 絲屋寿雄 湊書房昭和46年9月刊より)

 多分、あるひとの言葉というのはキリスト者でもあった大石のことだから聖書かなにかに関した言葉ではないかと思う。しみじみと落ち込んでいるときに思い出したい言葉である。

 この大石の処刑を悼んで、二人の高名な詩人が、詩を詠んでいる。以下メモ代わりにそれも記す。

「愚者の死」 佐藤春夫
 千九百十一年一月二十三日
 大石誠之助は殺されたり。


 げに厳粛なる多数者の規約を
 裏切るものは殺さるべきかな。


 死を賭して遊戯を思い、
 民俗の歴史を知らず
 日本人ならざる者
 愚なる者は殺されたり。


 「偽(うそ)より出し真実(まこと)なり」と
 絞首台上の一語その愚を極む


 われの郷里は紀州新宮
 渠の郷里もわれの町。


 聞く渠が郷里にして、わが郷里なる
 紀州新宮の町は恐懼せりと。
 うべさかしかる商人の町は欺かん、


 ―町人は慎めよ。
 教師らは国の歴史を更に又説けよ。



「誠之助の死」与謝野鉄幹

 大石誠之助は死にました、
 いい気味な、
 機械に挟まれて死にました。
 人の名前に誠之助は沢山ある、
 然し、然し、
 わたしの友達の誠之助は唯一人。

 わたしはもうその誠之助に逢はれない、
 なんの、構ふもんか、
 機械に挟まれて死ぬやうな、
 馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。
 
 それでも誠之助は死にました、
 おお、死にました。

 日本人で無かつた誠之助、
 立派な気ちがひの誠之助、
 有ることか、無いことか、
 神様を最初に無視した誠之助、
 大逆無道の誠之助。

 ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
 その誠之助は死にました。

 誠之助と誠之助の一味が死んだので、
 忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
 おめでたう。


紀州新宮を訪ねることがあれば、ぜひ彼のよすがをしのぼうと思う。