酒徒行状記

民俗学と酒など

【2024年3月後半】今月の一日一論文:「水戸藩における試合剣術に関する一考察」「薬師寺修二会の存続基盤」「平成 26 年広島土砂災害に学ぶ」ほか

  2024年3月後半の一日一論文。

 先輩の弔いに栃木県佐野市にいったり、奈良の薬師寺で修二会を見たりして忙しかった。

 薬師寺の修二会とてもよかった。また行きたい。

 

薬師寺修二会の鬼。松明もって大暴れである

【武道】

加藤寛 「剣道の礼式に関する研究とくに蹲踞について」

 「走衆故実」など有職故実の資料を元に、蹲踞が日本独自の礼であり、またやや前傾した神道方式の蹲踞と、相撲や剣道に見られる武道方式の蹲踞の二種類があるとする。 

 後者の蹲踞は享保年間の「相撲極秘伝書」には見られ、江戸初期には行われていたとする。

 剣道(剣術)については文献的に明確な資料はないが、本来形式に拘泥せず行われていたものが、元禄から正徳(1688-1716)ごろ「武芸が身振の美しい所作事に華法化されて行くに従って、立ち合い前後の形式も整備され、そこにおける容儀なども武士の教養としてとくに重要視されてきた」とする

 そして、剣道における蹲踞は「屋内の板敷道場で木刀を下に置く形式ができ」たころより普及したが、礼式は流派ごとで区々であり、近代に入って大日本武徳会剣術形や大日本帝国剣道形が普及し、試合形式が統一される中で、礼式も統一が見られたとのことである。

 先日少し話題になった「杖太刀」に関連して読む。本論文は立礼についてはあまり触れれていないが各古流の礼法が整理されている。空鈍流の伝書に「別に礼法なく何方なりとも我が居た処より直に立出で剣術使ふ事を一流の宗とする」とあるように剣術の礼式はそこまでやかましくなかったのではと思われる。

 加藤寛氏は戦後の学生剣道復興に尽力し、国学院大学國學院大學スポーツ・身体文化研究室で剣道史・武術史の研究を行う。

訃報 – 國學院大學剣道部・剣友会

 

 なお、剣道における蹲踞を「屋内の板敷道場で木刀を下に置く形式ができ」たころより普及とあるが、屋内の板敷道場の普及はかなり近代に入ってからなので、そこは疑問が残る(みんみんぜみ氏からも同様の指摘をいただいたように思うが、いまtweetが見つからない。)

 

 また、杖太刀に関する自分の見解はここにまとめた。

 

sake-manga.hatenablog.com

  私としては、刀を杖の様に突く所作は、江戸時代の人にとっては、ごくごく普通の事として(特段意識することなく)、行われていたことであり、場合によっては歌舞伎などを意識した、「カッコいい仕草」だったのではないかと思っている。

  

■長尾進 「水戸藩における試合剣術に関する一考察-『公覧始末撃剣』 の分析を通して」

 天保4年、徳川斉昭の前で初めて試合剣術を行ったときの記録『公覧始末撃剣』(杉山復堂。神道無念流を修める)をもとに、水戸藩でどのように「格(形)」の上覧と 神道無念流の試合剣術が行われたかを分析した論文。

 試合剣術を中心とする神道無念流では、上覧の際「自分達は『勝負専ラ』の流儀なので,「格」を数本 演 じた後は,試合剣術を披露しよう』と決意するが、運営の監察からは「前例がないので、格の披露のみにするよう」伝えられる。

 流派内で相談したり、同じく試合剣術を行っていた小野派一刀流などとも相談し、「勝負形の試合不レ苦候」と許可も得て、「格」と同門での試合の両方を行うこととなった。

 杉山は当日の「「格」をみせよ」という斉昭の指示に呆れつつも、『五箇』の形を行う。(自身では不出来としている) 試合の方は大合戦となり「皆々延ビ揚り見物 」と注目される試合を行ったというのが『始末』に記載された内容である。

 長尾氏も指摘しているが、この記録は ・試合中心の流派は師範の身分階層が低い ・当時はまだ形稽古の流派が中心であり、試合剣術の上覧がなかなか認められなかった ・試合中心の流派は、何とか自分たちの試合を上覧に供そうと努力する という当時の剣術の状況を読み取ることができる。

 この後、同じく試合剣術を進めた藤田東湖が藩の中心になったことや、斉昭が形の比較検討をもとに、一刀流や新陰流・真陰流など複数流派を統合し(水府流)、試合剣術を行うよう進めたことから、 「公覧を境に10年程で一変 し,試合剣術が形剣術を圧倒的に凌駕」したとする。

 『勇気あるものより散れ』の神道無念流がカッコよかったので、読む。 当時新興流派であった、試合剣術がどのように自分たちを認めてもらおうとしていたのがよくわかる論文であった。

 

 

 神道無念流は剣道形を制定した委員の一人、中山博道が修めていたり、戦前の剣道を伝えるという羽賀準一などがいるが、今でも剣道と併修する人が多いのだろうか?wikipediaなどを見てもいまいちよくわからなかった。

 また、wikiの二代目岡田十松の系統の記事は、このサイトが元なのだと思うがちと面白い。「(斎藤)弥九郎であれば、絶対に納得できない秘剣、顔をそむける必殺剣」とは……

renpeikan.org 長尾進氏は武道史・武道文化論の研究を主とする。著書に『剣道の文化誌』などがある。また自身も剣道を嗜み、2022年には剣道範士ともなっている。

  なお、本記事投稿後、剣道史もされてい橙氏より、神道無念流と剣道の現状について下記の通り、ご教示いただく。橙さんありがとうございました。

【国文学】【中国文化】

■宋成徳 「『竹取物語』,「竹公主」 から 「斑竹姑娘」 へ」

 『斑竹姑娘』は田海燕四川省アバ・チベット族の民話を採話し紹介した昔話で、内容が竹取物語に酷似することから、竹取物語のルーツは中国にあるとの説が唱えられた(伊藤清司竹取物語の誕生』) しかしその後『斑竹姑娘』は、『竹取物語』を田が翻案したと判明し、中国ルーツ説は否定されている。

 本論文はそれを踏まえて、田がどう竹取物語を知り、翻案したかについて、1925年鄭振鐸が訳した『竹公主』がその元だとして、『竹公主』と『斑竹姑娘』の類似を検討する。

 本論文では、

 (1)原話にない「月宮」の増設

 (2)「燕の子安貝」「龍の首の珠」の順が『公主』『姑娘』では逆

 (3)5人の求婚者の説明が『公主』からの脱胎

 (4)『公主』と『姑娘』の細部が類似の4つから『斑竹姑娘』は『竹公主』の再話だとする。

 昨日、竹取物語の竹の割り方のtweetがバズっていたので紹介。 実はまだ、伊藤『竹取物語の誕生』読んでいない。私が子供の時の大修館の国語便覧では『斑竹姑娘』との関連がコラムに書いてあって気にはなっていたのだけど。

 また、こんな記事があるのも見つける。『竹取物語の誕生』』の出版時期、照葉樹林文化論とかぶるのか.

www.kochinews.co.jp

 本論文の筆者、宋成徳氏は中日比較文学の研究者。「蝉、ひぐらしを詠む万葉歌と中国文学」 「万葉集の雁と中国文学」などがある。

宋成德-山东大学外国语学院

 

【民俗】【民具】

■「山窩―日本のジプシー」(樋口清之編『生きている歴史: 日本の伝統』1人物往来社1967) 

 昨日の竹取物語の竹細工に関連して紹介。 歴史読本に掲載された「生きている歴史」シリーズの一つ。 本記事は埼玉県寄居町に住んでいた(瀬降る)山窩の大山藤松とその一家にインタビューをしたもの。 ただ、筒井功や佐伯修などの調査ですでに明らかになっているが、この記事、完全なヤラセである。

 この記事のヤラセ作成経緯については、 筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』(文春新書) 佐伯修 関東流れ箕作り「大山藤松」の記録(サンカの足跡を訪ねて1)(マージナル4号 現代書館1989.11) 等が参考になる。特に前者は詳細に三角寛のサンカ研究の虚偽問題を記載している。

 ヤラセ記事だが、本記事は、下記サイトによれば1960年代のサンカブームの火付け役となった記事の一つとのこと。 サンカブーム総まくり1961~2015(山窩ラボ『サンカ研究』)

ameblo.jp しかし、樋口清之先生も編集とはいえ、ヤラセのことはご存じでなかったのかしらん(おおらかな時代だったから…) いずれにせよ、都市伝説的なサンカに纏わる言説は全くの誤りであり、「箕、筬、川魚などにかかわる無籍・非定住の職能民」(筒井功 サンカの起源)の定義が正しいものとおもわれる。

 「明治時代の山窩は仕事七分に武芸三分といって各組にいる武芸の先生について武術に精進したのである。」とか伝奇物のネタにはなりそうなんだけどねえ…。

 

■中野 俊雄「茶の湯釜と鉄瓶の歴史と替底方法」

 佐野で天明釜の話を聞いたので、論文を読む。

 佐野は「天明釜」として福岡の芦屋釜と並ぶ関東の鋳物釜の産地であった。 伝承では、藤原秀郷河内国より鋳物師を召したことに始まるとするが、製造が盛んになるのは鎌倉ごろからとされる。 松永久秀の平蜘蛛の釜も天明釜とされる

 本論文は茶の湯釜の歴史の概説と、古くなった茶釜の替底(茶釜の底が痛んだ際に、底を切り、新しい底を継ぐ方法)について記す。 鋳造した釜は9世紀ごろの寺院の記録では出て来るが、本邦で紀年の入った最古の釜は和歌山県熊野大社の大釜で建久9年(1198)のものとなる。

 天明の中でも桃山以前のものを古天明と呼び珍重するが、本論文によると長年の使用で腐食・漏水のために新規に作った底と入替えるものがほとんどである。

 この入替えについては尾垂釜,覆垂釜とよばれる、傷んだ底の部分を欠き落とし,残った上部の胴の内側に新規に造った底(内入り底)を接着する方法と、底を切り取ってそこに新規に作った底(替底)を接着する方法がある。

 本邦における釜の歴史と、また替え底という特殊な技法についてわかる面白い論文であった。替底の接合は鉄粉と漆をを混ぜたものとのことだが、よく火にかけて大丈夫だと思う。

 文中、辻与次郎について、「滋賀県国東辻の出身の鋳物師」としているが、これが滋賀県栗東市辻の誤記である。また「湯立て神事といって(中略) これらには年号銘のあるものはない」として三足釜の写真を挙げるが、湯立て神事は普通の羽釜を使うところも多いのは注意。

webarchives.tnm.jp 中野俊雄(1923-2018)は川口の鋳物技術者として鋳物の歴史・技術史について研究を手掛ける。「幕末川口の鋳物師と大砲」『中世、近世の鋳鉄品 鉄仏・仏塔・灯ろう・湯釜・天水桶・大砲・建造物』などの著作がある。

 略歴 鋳造業に携わりながら,いろいろ挑戦しました

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfes/84/12/84_758/_pdf/-char/ja

 佐野では現在でも、若林鋳造所、正田鋳造所、江田工房といった天明釜の伝統を伝える鋳物師が残っている 写真は佐野厄除け大師で見た天明鋳物による撞鐘。 非常に形のいい撞鐘である。金ピカの新しいのよりこっちが好き

佐野、天明の鐘

佐野厄除け大師の新しい鐘

【民俗】

柳田国男「日本民俗学の頽廃を悲しむ」(講演要旨)

 柳田国男の最晩年、昭和35年、房総民俗の会で行われた講演。「頽廃を悲しむ」という衝撃的なタイトルとともに、柳田の最晩年の思想を示す重要な講演であったが、詳細な講演記録がなく「幻の講演」と呼ばれていた。 1986年千葉在住の菱田忠義宅にメモがあることを後藤総一郎が知り、後年伊那民俗に掲載

 発見の経緯、内容については同号にて千葉徳爾等が解説を加えている。 その解説とも重複するが、やはり柳田の年齢による老耄ぶりがまず伝わるメモとなっており、話題も理路整然とはしていない。日本民俗学より、柳田の頽廃が悲しくなる…

 柳田の示す「頽廃」については杉本仁などが指摘する通り「珍談・奇談に走りすぎる」という部分と門下が「民族学」に走ったことを示すと思われるが、千葉は多少違い、学問としての民俗学の頽廃を嘆いたのではなく、「日本人の民俗」が頽廃したのを嘆いてるのだととっている。

 いずれにせよ、この講演で現代のわれわれが注目すべきは、頽廃そのものよりも、柳田がなぜ民俗学と名付けたかの部分である。「いずれにせよ学問のない人の人生知識に対して、いい名がなかった」「文字を当てにしないでいると英国の田舎を調べるより、東京の周囲でもわかる」

 また「村の結合」に関するところは自分の研究と接続するので興味深い。 大塚英志は「民俗学は公民の育成を目指した」(『公民の民俗学』)とであるとしているが、その議論などとも絡めて読むべきである

 なお、この講演が本当に「日本民俗学の頽廃を悲しむ」という講演名であったかは実は不明である。実際には異なる講演名か、とくに講演名のついてないものだったと思われる(そんな暗い講演名だと、人来ないよ…)その経緯も同号にあり。

 

【民俗】【芸能史】【修二会】

■村田, 浩子 薬師寺修二会(花会式)に荘厳される花づくり

 奈良の薬師寺修二会(花会式)を見に行くので、その事前調査も兼ねて読む。 民俗学者なんだから修正会、修二会くらい見たことあるだろうと思われるが、オコナイは見学したことあるけども、東大寺薬師寺の修正会、修二会を見るのは初めてである。わくわく

 修正会や修二会、あるいはそこから農村で行われるようになった「オコナイ」行事では、儀式とともにマユダマ、モチバナなどで荘厳されるのが特徴だが、薬師寺修二会(修二会薬師悔過法要)は造花で荘厳されることから別名、花会式とも呼ばれる

 本論文によると、花会式では金堂の内陣に壇供の餠のほか10種の造花(梅、桃、桜など)が奉ぜられるとのことである。 本論文は菩提山町の橋本家に取材したもので橋本家では6種類、996本を作る。橋本家はもとは薬師寺の僧であったことから、現在でも100年にわたって修二会の造花づくりを務める。

 本論文で非常に印象的なのは造花の見事さである。 祭礼の造花と聞くと、運動会の花くらいの紙細工をつい想像してしまうが、本報告の造花は非常にレベルが高く美しいものとなっている。その製造法を見ると「おしべ=「におい」と呼ばれる梅のおしべには鹿の尻尾の毛を使い、おしべの先に黄色いキハダの粉末をつける。牡丹のおしべにもキハダの粉を使う」「山吹の花びらは、自宅庭のクチナシを収穫し鋏で半分に切り、煮出して黄色に染め上げる」など非常に凝ったものであることがわかる

 村田浩子氏は「衣」を専門分野した研究を行っており、地域の繊維素材と歴史に関する研究などを行っている。この論文も卒業制作の指導の中で山添村で行っている蚕の飼育と絹糸の採取が縁(造花の材料の一部となった)となったことによるものである

https://www.kio.ac.jp/teachers/75012/

 

■西瀬英紀 「薬師寺修二会の存続基盤」

 一昨日、昨日と見学した薬師寺修二会に関する論文 薬師寺修二会の各行事の概略・歴史を示した上で、中世期には在地領主だった薬師寺が、戦国期に朱印地を安堵される一地方寺院へと変容し、その状況下で修二会をどのように存続させてきたかを示す論文。

 本論文は修二会の財政基盤となる「上分米」や「檀供支配状」などの記録から、中世期には在地領主として周辺地域を支配していた薬師寺が、天正14年豊臣秀長大和郡山入部の時期より、在地領主から、朱印地を安堵される一地方寺院へと変容したことが読み取れるとする。

 しかし、修二会の行事である「神分」(修二会の功徳を神祇に分ける行事)と「差定」を見ると、一地方寺院になった後も、村落の水利権を有したことが伺え、観光寺院化が進んだ現在でも、「西ノ京の春祭り」として共通の祈願の場として機能し、存続していることを示す。

 儀式と史料を読み解いて、寺院が在地領主から地方寺院へ変化したことを読み取ったのは非常に面白くドキドキした。芸能史研究面白い。こういう手法は自分の研究にも反映させたい。 また詳細も記述で薬師寺修二会を研究する際の基礎論文となる論文だと思われる。

 実は今回の修二会見学、本論文を執筆した西瀬先生にご案内・説明をいただいた。「この行事からこういう歴史を読み取れる」ことを詳細に教えていただき、非常に興味深く儀式を見ることができた。 改めてお礼申し上げる。

 西瀬先生は、国立劇場調査養成部に所属。芸能史の研究をされる。 『日本芸能史』の著書有り。

【地理学】

■小川, 日南, 藤井, 基貴 「災害伝承と防災教育(1) :静岡市における民話「沼のばあさん」を事例として」

 静岡市麻機地区の民話「沼のばあさん」の伝承について、静岡県内の他の伝承や、他県の沼に関する伝承とも比較することで、災害伝承としての解釈の可能性を検討したもの。 TLで話題なっていたので読む。

 「沼のばあさん」の民話は興味深く、短い俗信や断片的な伝承でなく、様々な要素が含まれた「民話」から災害伝承の要素を抽出する試みについては、評価ができると思われる。 民話や伝承を「災害伝承」として教育に活用することは東日本大震災以来注目されており、本論文もそうした活用の一つである

 一方で現在の教育に直接つかえそうな「災害伝承」以外の要素を全く捨象している点は、少し疑問が残る。 論文筆者は年代別に4種類の類話を引いているが、それを見る限り、この民話は元来は寺社の縁起譚や人身御供の要素が強い民話と考えられるが、論文筆者はそうした点には触れていない。

 「当時の人々が抱えていた不安や恐怖を心象風景として読み取る」ならば、人身御供の要素や鬼蓮の奇瑞の意味なども検討すべきではないかと思う

 また、論文中で使用している地図図版が、郷土史からの引用に偏っており、地理院地形図がまったく使われていない点も気になった。 地形による災害を論ずるのであれば、地形図は論文中に一枚でも入れた方が、「伝承」だけではなく科学的な観点からも検討する論文として、説得力が増すものと思われる。

 また、防災教育としても「災害があった」という伝承を単に伝えるだけでなく、それをきっかけとして実際の地形図から災害を読み取るなど、科学的な防災意識につなげていくべきかと思われる。

 なお、下記記事によると論文筆者は「防災妖怪学」と題して論文をまとめられているとのこと。さらなる研究の発展に期待をしたい。

newsdig.tbs.co.jp

 なお、本投稿を受けて鹿児島大の坂井美日氏と静岡理工科大学の谷口ジョイ氏が方言民話についてやり取りをしていた。

 方言民話知らなかった。

 

■日本応用地質学会 「平成 26 年広島土砂災害に学ぶ―土地の成り立ちを知り、土砂災害から身を守る―」

 地理学の講義で、平成26年広島土砂災害と地名(とそれにまつわるデマ)の話を毎年していて、「地名で災害がわかると考えるのも一つの切り口だけど、デマなど問題も多いので、ハザードマップや地形図をちゃんと見よう」という防災教育につなげている。

 平成26年広島土砂災害と地名とそれにまつわるデマというのは、土砂災害のあった地域は昔「八木蛇落地悪谷」という地名であり、宅地造成の際に地名を変えて販売した」というものである。

 デマについては下記サイトなどで「「宅地造成の際に」地名を変えたものではない」指摘がなされているが、本資料は日本応用地質学会が平成27年に行った報告会の記録であり、小笠原 洋氏が「災害文化の伝承から学べること-八木地区に残る伝説から-」として報告を行っている

takanashi.hateblo.jp 本報告によれば、 ・香川勝雄の伝承の表現は土石流の災害と合致する(1532年に土石流があったと思われる) ・蛇王池周辺は太田川の洪水頻発地帯であった。

 そして、旧の地形図などから、当時の人々は氾濫平野を避けて土石流堆積物に住居を構えていたことを読み取り、1532年の土石流は甚大な被害を与えた可能性を指摘し、それらの災害の記憶から「八木蛇落地悪谷」や蛇王池の伝説が成立したとする。

 その上で ・当時の人々にとっては土石流よりも洪水の方が警戒すべき対象であった ・八木地区は過去にも土砂災害があったが、英雄伝説に組み込まれたため、実態がわかりにくく、また忘れ去られようとしていたことを記す。

 発表者の方は歴史や民俗の専門ではないが、地形の専門家として現地の地形・地質を丁寧に確認し、蛇王池の伝説を解釈されたことは、非常に説得力があり、単純な災害地名や災害伝承の報告とは一線を画すものだと考える。

 あくまで地名や伝説は防災の入口にすぎず、本発表のように地形・地質の科学的な検討と組み合わせることで、過去の教訓をいかすという「防災科学」につながると民俗学の立場からも思っている。

 なお、蛇王池伝説については広島県立文書館が『辻治光著『実伝蛇王池物語』を紹介している。

 

 www.pref.hiroshima.lg.jp

 

 また本報告の「土石流の実像に迫る」の報告も山津波・蛇抜けと実際の土石流について比較をしていて、面白い。こちらもおすすめ。

 なお、豪雨災害と香川勝雄の伝承の「伝承」をさらに分析したものとしては、以下の論文もある。こちらは現地での砂防堰堤の設計の観点から香川勝雄の伝承を検討したもの。

 佐古憲作「平成26年8月 広島豪雨災害と香川勝雄の大蛇退治について」

https://www.sabopc.or.jp/images/h26m8_hiroshima.pdf