【2024年4月前半】今月の一日一論文。
どうもこの時期(これを書いている今もだけど)、忙しいのと、妙に精神的に参っていて毎日論文読みはできなかった。
写真は4月に行った石和の旅館の写真。喜仙という宿で、地形を利用した面白い庭になっていた。
ひと月ばかり温泉地で養生したい。
また、鹿児島大学の阪井美日先生@MikaSakai_より論文多読の実習課題としてリーディングカードを使用している旨教わった。
リーディングカードの内容、#一日一論文と同じでとても興味深い。
学部生向けの多読の場合、うちではこんな感じの、ライトなカードを使います。 https://t.co/SbzW3cw9dm pic.twitter.com/PWmGVcsPF4
— 坂井美日(鹿児島大学) (@MikaSakai_0923) 2024年4月2日
ありがとうございます🙌
— 坂井美日(鹿児島大学) (@MikaSakai_0923) 2024年4月2日
ちなみに弊学で論文多読を実践する場合、傾向として気をつけるべきは、
教員→1つ1つの課題を重くしすぎないこと。
学生→1.勝手な読みをしないこと(この論文そんなこと書いてないよ?現象)
2.ただ読んで終わりにしないこと(へぇ〜🙂【完】)
だと思われます。 https://t.co/MC4wKqeKpt
「1.勝手な読みをしないこと(この論文そんなこと書いてないよ?現象)
2.ただ読んで終わりにしないこと」
というのは重要な指摘だと思う。私も気を付けて続けていこうと思う。
【地理学】
千葉 徳爾 シナ嶺南地方の風土病「瘴癘」の地理学的考察
#一日一論文 千葉 徳爾 シナ嶺南地方の風土病「瘴癘」の地理学的考察https://t.co/NT3gON3wPM
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月8日
千葉徳爾の中国研究。 中国嶺南地方(福建・広東・広西)の地理誌に「瘴癘Chang-li」とあるのは熱帯熱マラリアおよび3日熱マラリアなど総称であるとする論文。
千葉の「疾病(風土病)の発生要因は住民による居住領域を組織化する効果が不充分な程度を示す1つの指標となる」とする観点は面白い。 そして千葉はその観点から「瘴癘の存在はシナ文化圏の構成が,南嶺以南では近ごろまで不完全であつたことの証明ともなる」としている。
千葉は瘴癘流行時期・分布などから恙虫病などとも比較し瘴癘を熱帯熱マラリアであり,若干の3日熱および4日熱マラリアその他の高熱症を含む総称と仮定する。 そして水田が乾田化にするに従い原虫率も低下し、特に清朝中期以来の口増加と甘藷・玉蜀黍など一連の 新来作物の畑作が藪地を一掃したとする。
中国の瘴癘について医学的・地理学的に考察した論文として、面白い。 飯島渉『感染症の中国史』などとも合わせて読んでいきたい。
千葉徳爾は現在のWikipediaを見ると国内の民俗学・地理学研究に従事した事績のみが記載されているが、戦時中は中国東北部の大興安嶺で軍役に服し、その後シベリア抑留を体験している。
恩師千葉徳爾先生を偲ぶ
http://hist-geo.jp/img/archive/208_001.pdf
千葉による中国研究はあまり認識されていないが(大塚英志による千葉の評伝『殺生と戦争の民俗』でもそんなには触れらえていなかったはず)、本論文は千葉の地理学者の視点が広くアジアにも及んでいたことを示す論文だと思われる。
【食文化】
荒田勇作 西洋料理と60年
#一日一論文 荒田勇作 西洋料理と60年
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月10日
日本調理科学会誌が1971年、全日本司厨士協会の副会長荒田勇作にインタビューを行ったもの。https://t.co/dQ4yjt2Qhw
インタビュー記事、今読むとなかなか面白い。熟成肉、オムレツの焼き方、スパゲッティをゆでる際の塩、マカロニを酢と油でパラパラさせるなど、今となっては一般的な技法だが、当時としては最新の技術であったことが伺える。 流行りの言葉でいうと、まさしくゾルトラークである。
外国人の方が塩味を好むというのはいまはどうなんだろ? 焼いた骨を使ってブイヨンを作る場合、言葉がかわるのは知らなかった。「水道の水をじかに使うことは絶対になく,必ずだし汁を使う」というのも面白い。
最後、粉ふきいもの節があるが、芋に関しては本人の別のインタビューもあり。思い入れがあったんだろう。そういえば最近、粉ふきいもって言わないねえ。
荒田勇作「「いもはお前に限る」といわれて」
荒田勇作(1895~1978)は戦前~1970年代の代表的コック、ニューグランドホテル系の料理人の「総帥」とも呼ばれた。 文中ある「西洋料理 全6巻」は後、全8巻になる『荒田西洋料理』。この本は戦後日本の西洋料理の集大成ともいわれる。
参考 荒田 勇作(1895~1978)
森山明, 論壇:『街道をゆく』 の旅の空間: 食
#一日一論文 森山明, 論壇:『街道をゆく』 の旅の空間: 食
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月11日
司馬遼太郎の『街道をゆく』の「「日本での食品の成立が,ながいあいだ,気がかりになっている」という記述から、 司馬が旅先で「食」を語る意味を探った論文。https://t.co/3AcVBk8piP
司馬遼太郎の偏食はファンには有名であり、本論文の作中の食事分析でも示されている。
久慈まで行って「トンカツは私の旅の小さな心得のひとつで,こればかりは土地の都鄙を問わず,店舗の華卑を問わず,味に上下がない」とのたまう先生である。
おめ、ホヤ食(け)ぇ、ホヤ。
しかし、本論文では紀行文中、少ないながらも司馬が「うまい」と評した食事、食品を冠した章タイトルの分析、食べものと自然に関する記載から司馬の食への態度を分析し、司馬の食の思想とその変遷として
(1)食欲を満たす食事は関心がない。
(2)「そば」または知人の匠気のない料理は「うまい」と表現
(3)日本の食品の成立には関心がある
(4)作品晩期で、原初的な食と人のかかわりを見つける という流れがあると結論付ける。
『街道が行く』は地域のアウトラインの把握としては良いが、食文化については、蒟蒻など一部を除いては参考にならぬと思っていたが、偏食家の司馬の食の思想を読み解いたのは、評価できる観点であった。
時代背景的にも司馬の思想は、1990年代の飽食的な「グルメ」への対立軸な側面があったのではないかとも思われる。
司馬の(4)「原初的な食と人のかかわりを見つける」といった 思想は、今ではある意味手あかのついたおなじみの表現になったが、言い換えれば、現在の我々の食への意識の底流となり、普遍化したことでもある。
先日TLで『美味しんぼ』「トンカツ慕情」から、当時のとんかつは5000円くらいでは?という話が出たので本論文を紹介。(とんかつ繋がり)
『美味しんぼ』も雁谷哲の思想が批判(or揶揄)されているが、30年以上連載された作品である。作品としては雁屋の思想の変遷も含めた読み方をすべきかもしれない。
計算しなおし。トンカツ慕情は1987年。大卒初任給が14万8200円新宿のトンカツ屋約1000円。「学生さん~」のセリフは約30年前の設定。1968年の初任給3万600円。大阪で約300円。今年の初任給22万8500円で換算すると2240円(60年代)1542円(90年代)。
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月9日
やはり5000円はちと高い。 https://t.co/ygY1D3qHet pic.twitter.com/vIhq1ftVeO
森山明(1947-)はJTBの後、秀明大学で国際観光学を講義。後JICAでラオス観光の販売促進を行う。著書に『不思議の国のラオス』。論文としては『街道をゆく』を題材にした研究をいくつか行っている。
太田静行 ほや
#一日一論文 太田静行 ほや
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月12日
「ほや」に関する小論文。ほやの生物学的特徴、日本におけるほや、ほやの栄養分、料理法などを記す。https://t.co/zzLKX9sIht
料理法はほやの酢の物、水もの、天盛り、みそ焼き、炭火焼、吸物、粕漬けなどを紹介。
「外国でも地中 海沿岸地方ではほやを食用する。 調理法については未調査である」とあるが、海外でのほや食は南條竹則が『あくび猫』で「フレンチ・コネクション」でほやを食べるシーンがあることを指摘している。
司馬遼太郎を研究した論文で「ほや食え」とかいたので、ほやの論文をば紹介。
以前、「ほや」については、以前酒徒行状記でも書いたのでここでも紹介をする。ちなみこの時は生食だったが、最近は火を通した方が旨いのではないかと思うようになっている。ほや大好き。
「若くて元気な、ほやの幼生は ただ一つの輝く目で『人生』を見る。 その意識(こころ)は素直(すぐ)にして 悲嘆(かなしみ)に脆く、苦痛(いたみ)によわい。 尻尾があり、脊椎があり、脳があり 脊椎動物と呼ばれる生き物の 条件をすべて満たしている。」好きな詩である。
太田静行氏(1925 - 2006)は味の素の研究所から北里大学名誉教授 食用油の利用および改質、食品調味などの研究を行う。『だし・エキスの知識』『うま味調味料の知識』など著書多数。
【武術】
前田繁則, 小寺直樹, 平野恭平 民俗文化・古武道の伝承活動における稽古道具の製作と補修についての一考察: 宝蔵院流高田派槍術の事例
#一日一論文 前田繁則, 小寺直樹, 平野恭平 民俗文化・古武道の伝承活動における稽古道具の製作と補修についての一考察: 宝蔵院流高田派槍術の事例https://t.co/nSGq5zxyLQ
— 酒徒吉風 (@syutoyoshikaze) 2024年4月2日
奈良つながりの論文をば紹介。 宝蔵院流は奈良興福寺の僧、胤栄が創始した槍の流派である。 武道や武術に詳しくない方でも宮本武蔵の小説や漫画などで聞いたことがあるかと思う。この流派は稽古に木製の槍を使うが、本論文は、稽古道具の変遷とそれに伴う術技の変遷と現代での調達・維持を述べている。
宝蔵院流高田派では、鎌槍と素槍で稽古を行う。稽古用の鎌槍の柄は樫であるが、鎌を模した竹製の横手がついている。本論文によると、幕末期の道具は現在のものよりと、直径が細く横手も短く薄い。
これは幕末期は試合稽古が多く、試合稽古では鎌(横手)を使った技術よりも、突き合うことが中心となっているためとのことである。 現在は、形稽古が中心になったため、横手も長くなりまた、穂先も太くなったとする。 稽古道具から稽古内容の変化がうかがえるの大変面白い。
「鎌槍で突く際に横手が長すぎると相手の籠手や肘にあたるため突きの妨げとなる」というのも、鎌槍的には籠手一本としてもいい気がするが、素槍が不利になるということであろうか。 試合化することで、流派の技術でなく試合の技術になるというのはどの武術や武道でも見られるがその一例と考えられる。
また2mを越える道具は都市部では保管・運搬が困難であり、特に海外での演武では飛行機の持ち込みが不可能となる。このため他流の継槍を参考に、新しく継槍を開発したとのことである。 現代でどのように古武道を伝承していくか、興味深い取り組みであるといえる。
また槍の2mを越える道具は都市部では保管・運搬が困難であり、特に海外での演武では飛行機の持ち込みが不可能となる。このため他流の継槍を参考に、新しく継槍を開発したとのことである。 現代でどのように古武道を伝承していくか、興味深い取り組みであるといえる。
現在、古武道業界では、職人の減少とともに稽古道具にの材の入手が困難になりつつある。どのように古武道を次世代に継承していくか、道具の改良も含めて検討をすべき時期なのではないかとも思われる
参考 十川 陽香 , 興梠 克久 武道用木刀の生産および流通の現状と課題
前田繁則氏・小寺直樹氏は宝蔵院流と古武道を題材として、『近畿民俗」に「民俗文化・古武道としての槍術の伝承・復元のありかた : 大阪宝蔵院流槍術の取り組みを中心に 」「民俗文化・古武道の伝承活動における教歌の検討」などの論文を投稿している。(前田氏は宝蔵院流の免許皆伝との由)
平野恭平氏は繊維を中心とした化学産業を中心とした経営史などの研究が専門とのこと。「神戸大学附属社会科学系図書館の蔵書に残された落書きの調査報告」という論文もあり、こちらも気になる。
ところで、本論文、院の先輩の對馬陽一郎「古流剣術の稽古における諸作法の事例」(『歴史民俗資料学研究』11号)が引かれている。この論文先輩の論文だけど、まだ未読なので、よまねば。 歴史民俗資料学研究はやく神奈川大のリポジトリに入れてくれないかな…