酒徒行状記

民俗学と酒など

Ascidian(アシディアン)の解体

 実家の近所の魚屋で「ほや」を買った。
 この魚屋、閉店間際に行くと、大きなトレイにその日の売れ残りを載せて、まとめて1000円という大安売りをしてくれるので、非常に気に入っている。
 今日も大安売り目当てで買いに行くと、魚屋の兄さんがほやをおまけにつけてくれた。


 ほやは飲み屋なんかであると好きで頼むのだが、家で捌いて食べるのは初めてである。
魚屋の兄さんに大体のコツ(切る時身から出た汁は捨てない。身を水で洗わない。)を聞き、ネットでやり方を確認しながら捌いてみた。


 固い外の殻を剥き身を裏返し、内臓を取るというとこまではわりとスムーズに行ったが、見ると身に、白い半透明な小さな粒粒がついていた。
そばにいた母とも相談したが、母もほやを捌くのは初めてである。
 もしかして「寄生虫かも」と不安になる。でもいくらネットで検索してもイカなどのように寄生虫を注意する文言はでていない。「内臓を取り除く」としか書かれていない。
 とりあえず、念のため、注意しながら粒粒を外し、宮城出身の後輩がいたことを思い出し、急いでメールする。
 結局、後輩のメールによると「ほやの中って大抵そんなになっているから、寄生虫じゃないと思う」とのことであったが、メールが来た時にはあらかた粒粒を取り除いてしまった後であった。
 ちなみに内臓とフン(肝臓)を取り除くこととネットでは書いてあったが、、フンをなめてみると、強い磯の匂いがして、旨そうだったので捨てずに食うこととした。ちょうどサザエのキモを10倍くらい強烈にしたような味だった。


 さて、捌いた後は調理だが、一番シンプルに刺身にし、わさび醤油で食うことにする。
 ウマー、むっはー!磯の香りじゃー!
 筋肉質だがやわらかい身を食い、のどを通らすと口中に磯のにおいが溢れてくる。
 そこできゅっと酒を呑むと、磯の香りが適度に洗われて、またほやを食いたくなる。
 塩辛も以前食ったが、刺身の方が圧倒的に旨いというのが以前、都内の宮城県の郷土料理を食わせるとこで得た結論であった。今回、自分で捌いて食うともっと旨いことを新たに知った。


 酒は1週間くらい前に買った、伏見の『招徳』の「日本酒ヌーボー」。火入れをしていない生酒のしぼりたてというやつで、酸味と甘みと極微量の炭酸を感じるフレッシュな酒である。
 同じようなタイプの伏見の酒は『神聖』が経営している「鳥せい」で去年の冬に呑んだが、こっちの方がフレッシュ感と辛味が強く、ほやにも十分合う味であった。

 
 さて、ほやで思い出すのは次の詩である。
 この詩はアンドリュー・ラング(Andrew Lang)という19世紀の詩人が詠んだもので、南條竹則の作品『あくび猫』で知った。
 南條は『あくび猫』の「ほやごころ」というタイトルの回で、主人公らにほやの薀蓄を語らせている。
 曰く、ほやの英語名はascidianであるが、一般にはsea squirtという。外人もほやを食うことの証拠として、映画「フレンチ・コネクション」でほやを海辺で食うシーンがあるといった薀蓄である。
 その中でうんちくとしてほやを詠った詩があるというのが挙げられるのだが、これがなかなか含蓄が深い。

 

 人間とほや 寓意詩         アンドリュー・ラング作 南條竹則


 『人間の先祖はほやなり』
 とダーウィンは云えり。
 チッポケなる水棲生物、
 少なくとも九千年前、ゴリラが未だ生まれぬ以前(さき)から
 海を泳いで行ったり来たりしていた。


 心正しき人間は、祖先を敬い、
 その行いを鑑とするもの。
 されば問わん、我らが始祖は如何に生き
 その生活は如何なる教訓を与えるか?


 若くて元気な、ほやの幼生は
 ただ一つの輝く目で『人生』を見る。
 その意識(こころ)は素直(すぐ)にして
 悲嘆(かなしみ)に脆く、苦痛(いたみ)によわい。
 尻尾があり、脊椎があり、脳があり
 脊椎動物と呼ばれる生き物の
 条件をすべて満たしている。
 されど『老い』が到るや、卒然として感じ、
 渠(かれ)は岩に頭を突き刺す!
 尻尾は抜け、眼は陥没し、
 脳は皮膚に吸収される。
 動かず、感じず、
 もう潮の満干もわからない。
 ただじっと、頑なに、ただひとり
 岩にへばりついているばかり。


 さて、我ら、『渠』の末裔(すえ)なる我らも叱り然り。
 若き日は幼生のように自由で
 どこへなりと好きなところへとんでゆく。
 脳もある、情(ハート)もある。物を感じ、知ることもできる。
 やがて『老い』が訪れる!我らは『習慣』にへばりついて、もう自由ではない
 『ほや』は岩に根をおろすが、
 我らは時計に繋がれた奴隷。
 我らの岩は、薬――書類――法律、
 かかるものに頭(くび)を突っ込んだなり
 愛は抜け落ち、情(ハート)は陥没し、
 日毎、総身の皮は厚くなる。


 ああ、これでは生きているともいえぬ、
 広い世界に満ち引く波も、
 変わりゆく潮流のどよもしも知らず――
 ひねもす岩にひっついてるばかり。
 かくて、命の終わる時、
 眼も耳も聾(し)い、不感無覚に成り果てた人間は
 ほやに先祖返りするなり。


 ほやのオレンジの身を食いながら、まだ幼生の情が残っているうちに、私も成すべきことを成さねばなあと思ったのであった。