酒徒行状記

民俗学と酒など

神道一心流

 弁天さまの傍には扇塚、河豚塚、それに昨年ネット界を騒がせた「眼鏡の碑」なんかがある。眼鏡の碑は丁度、眼鏡をかけたメガネっ娘が熱心に碑文をよんでいるところで、そういうのが好きな好事家にはたまらぬであろうと思われた。
 さてその中に櫛淵虚冲軒先生碑というのがあった。
 どういう人かわからないが、碑文をざっと読んでみると江戸時代の高名な剣士を弟子が賛えた碑のようである。丁寧に碑文を読めばどんな流派かわかるだろうが、寒さに耐えかねて斜め読みで済ませてしまった。

 後日、資料を探してみると、この人物、神道一心流の創始者ということである
 安政4年に弟子の清水正巡という者が書いた『ありやなしや』では

   
  余が先師虚冲軒先生。其頃は小川町広小路。大岡伊織と云人の地面に道場を開き。先生。とし四十ちかく。強壮の頃なりき。身の丈五尺八寸。力三人に敵す。数流を研究し。一心流と云を建立す。門人吹雪算得。此人身の丈六尺二寸。力人を兼ぬ。眞当流の柔術をとり。一刀流の剣を教ゆ。試合に来り。先生に負け門人と成れり。此人長大美貌を以て。津山候の眷寵を受け。二百石にかかへられたり。平山子龍曰く。天下吹雪算得の男振は。三百石にては。やすしといへりと聞く。風采想像すべし・・・中略・・・ことごとく高弟たり。技芸皆衆に越えたり。他流試合田舎江戸より来る者。日々にたえず。其後先生家を下谷三味線堀。松平豆州邸の後の御徒組屋敷に転ず。僻地なるを以て。人しらず。高弟追々凋零して。晩年に業も大に衰へて。先生も物故せられたり。嗣弥次馬。後多左衛門と云ふ。これも近年歿せり。
加藤寛神道一心流櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡」国学院大学体育学研究室紀要第11巻 昭和54年3月國學院大学刊より。)


 とあって彼の事跡が記してある。
 下谷あたりでさえ僻地とあるのは恐れ入るが、なんとも「人しらずより」後の文はなんとも涙を誘う文である
 不忍の池の碑は清水正巡の父、清水正徳赤城が撰字して文久2年(1819)に建てたものであるらしい。内容は多分「ありやなしや」とほとんど同じだとは思うが、今度折を見て読んでみようと思う。
 なお、加藤寛の同論文によると、実際には神道一心流は虚冲軒の後、宣根、宣猶、盛宣、宣秀と四代続き、宣秀の代に明治維新を迎えた。
宣秀は道場を市ヶ谷小学校の前身である私学育幼舎と改築して、剣を捨て一流の幕を閉じたのであった。