酒徒行状記

民俗学と酒など

甲源一刀流

 合宿の帰り、小鹿野町の隣町、両神村に甲源一刀流の宗家の道場「耀武館」と甲源一刀流資料館の見学に寄る。
 
 甲源一刀流はこの地域を発祥として全国に広まった流派で、中里介山大菩薩峠机龍之介が使う流派として一躍有名になった。
 ここでは、その道場と小さい資料館が見学できるのだ。
 
 入り口の説明書きによると 

 逸見家の祖先は、清和天皇六世の子新羅三郎義光で、代々甲斐(山梨県)に住んでいたが、大永年間(一五二一〜二八年)に十世逸見若狭守源義綱がこの地に移住したと伝える。十九世逸見太四郎源義年は、剣の技をみがき、甲源一刀流と名づけ、開祖となった。二十二世太四郎源長英その子愛作源英敦、武市源義純、共に優れた剣士として名声が高かった。
 甲源一刀流耀武館は、木造平屋建で白壁に武者窓があり、稽古場十坪、控室二、五坪、稽古場につづいて一段高く床の間付きの師範席がある。
 「突き」の名門といわれる当館には首の高さの部分に大きなくぼみのできた柱があり、往時の稽古の激しさを物語っている。昭和十八年二月十五日、県の文化財に指定された。

 とのこと。

 以前訪れた時には、長屋門に併設された道場しか見学できなかったが、今回はたまたま中に逸見家のおばあさんがいらっしゃって資料館の鍵も空けてもらえ(普段はしまっている)、いろいろ説明を聞くことが出来た。

 道場は狭く、一組かせいぜい2組程度が立ち会えば一杯になる大きさである。
 中で摩利支天尊の掛け軸を拝見する。今回特にうれしかったのは道場の長押に架けてあった稽古用の薙刀と二間槍に触らせてもらえたことである。
 薙刀は、現代の竹製のなぎなたではなく、木の棒を加工して木製の刃の形をつけたものである。ウチの流派にも薙刀はあるが、刃のつけ方が違っていた。
 槍は 二間(3.6m)という恐ろしい長さであったが、持ってみると意外と軽い(写真は槍を構える先輩)。
 ウチの古武道の先生の話によると、二間槍は、現在、国内ではいい材がなく、作るのが難しく、大変貴重なものだそうだ。

 話を聞かせてくれた逸見さんによると、この道場は今はあまり使われていないが、逸見家の孫も甲源一刀流を近くの体育館などで学んでいるとのことである。

 資料館では、逸見家の資料や甲源一刀流の門人が連盟で靖国神社に奉納した額の下絵などを見せて頂く。

 下絵には100人以上の門弟の名前が描いており、どうも広い範囲に門弟がいたようである。
 おばあさんのはなしによると、遠隔地の門弟は、ここの道場に来て稽古をする時はが、付近に宿屋など泊まるところがないため、近くに住む門弟の家に泊まらせて貰って何日も修行したとのことである。
 このほか写真であったが、机龍之介のモデルとなった三田左内の額というのもあった。
 額には甲源一刀流ではなく「開平三知流」の字があったので不思議に思って調べてみると、以下の通りらしい。

 三田左内は、元は甲源一刀流の使い手であったが、腕が達者なため「開平三知流」という一派を開き、慶応三年に東京都青梅市御岳神社に額を奉納した。
 このことを快く思わなかった甲源一刀流は、三田の献額を止めようと、三田との間で争いになるが、天然理心流の松崎和多五郎によって仲裁され事なきを得たとのことである。
 参考:「幕末英傑録」http://www.bakusin.com/eiketu/ken4.html

 この献額事件をもとに中里介山大菩薩峠を書いたらしい。
 献額事件というと北辰一刀流と馬庭念流の伊香保明神での争いなども有名であるが、額を奉納するというのが流派の重要なステータスとなった時代であったのだなと思った。

なお、甲源一刀流の目録の序を掛け軸にしたものも見せてもらえた。含蓄があるので資料代わりに起こすと以下の通り。

 甲源一刀流目録之序
  夫剣術者心術也。心者一身之妙用、无疑偽无怨愛无自他无死生、而、至機先一刀之地位。則致、而究滕、於、諸毫□間即、心之修行也。当流執心之革勉勿怠事。 昭和五十八癸寅年清明 甲源一刀流 師範 田島隆耀書 印