酒徒行状記

民俗学と酒など

国立科学博物館 翡翠展

 上野の国立科学博物館翡翠展を見に行った。
 先に見に行った知人やネットの評判では、ヒスイ展よりもリニューアルした新館展示のほうが面白いとのことであったが、出雲大社の勾玉と清代の翡翠白菜を見たかったのだ。
 本来は一人で行くはずであったが、会社の同僚も行きたいと言う事になり、同僚・同僚の彼女・私というヘンな面子で行くことになる。なんだか最初の構想とはだいぶずれたが、まあこれも一興だと思って行く事にする。馬に蹴られないように気をつけなくては。

 新館と特別展示場の間の、なんだかどこぞのキャンパスのような造りの歩道を抜けると、特別展示場の入口に着く。休みのせいか結構混んでいる。入っている人の会話聞くと鉱物マニアの人も結構来ているようだ まずは、ヒスイの化学的組成や原石等の展示。一応高校時代に地学部に所属してはいたが、化学的な話を読んでも「ふーん」と思うだけである。いくつかのヒスイ原石に直に触れるのが面白いくらいであった。
 その後、ヒスイと類似の石の展示や日本国内のヒスイ産地の写真パネル表示や原石展示のブースになる。
 蛇紋岩を磨いたものがヒスイの類似品になるとは知らんかった。あと、正月にNHK特集のシルクロードで新疆ウイグル翡翠(玉)を採掘する商人の話がやっていたが、そこでとれるのは厳密にはヒスイではないことが書いてあった。NHKでさんざん「翡翠翡翠」と言ってたような気がするのだが、いいのかしらん?(もしかすると記憶違いでちゃんと「玉」といってたのかもしれぬ。玉だと、軟玉・硬玉のみならず、ヒスイに類似した石も含むので問題ないのだけれど)

 お次は、翡翠の文化史ということで、日本の古代の翡翠細工の展示である。
 古いものはまだ勾玉型をしておらず、小判形のに穴を空けたものがほとんどであった。製作途中の物などの展示や糸魚川流域の遺跡の展示が続き、念願の出雲大社蔵の翡翠勾玉を見る。
 残念ながら今回のはレプリカであったが、色といい形といい実にいいものであった。てっきり、出雲大社の神宝として神社に保存されてきたのだと思っていたら、出雲大社の裏手の真名井遺跡から発掘されたとの由であった。真名井遺跡の発掘年代がわからないが、近年まで誰も知られず地中に埋まっていたのだと思うとぞくぞくするものがある。

 なお、勾玉の形は動物の犬歯を模したというのが一番有力な説だが、他には胎児説などもあって、詳しくはわかっていないとのこと。
 今回の解説には載っていなかったが、柳田國男が「心臓の形を模したもの」と言っていたような気がするのだが、どうだったろうか?


 続いては中華の翡翠製品である。
清代のものがほとんどだから、比較することに意味はないのだけれども、やっぱり翡翠工芸をさせたら中国が一番だと思う。
漢詩を陰刻で彫り込んだ水椀なんかは、その繊細さにくらくらきてしまう。
 
 さて、念願の翡翠白菜。
 中華の伝統的なモチーフとして、翡翠で白菜を彫り、「白菜」と「百歳」と音が通じる縁起物とするというものだが、実は料理にも「翡翠白玉」というものが存在する


 清の乾隆帝は、日ごろ旨いものを鱈腹食いすぎてしまい、宮廷の厨師達の作る美味嘉肴に飽きて何を食べても満足しなかった。
 そこで帝は、宮中の料理人を集め、何か新奇な新しく自分の舌を驚かす料理を作れと命じ、作らねば罰を与えると言い出した。
 困ったのは料理人達、贅の限り、技の限りを尽くして料理を拵えたが、どうにも帝は満足されない。
 ところがある日、一人の老婆がこの問題を解決した。
 お忍びで出かけた先の家のある老婆が、白菜と豆腐の塩炒めをつくったところ、宮廷料理のごてごてした味に慣れていた帝は、その素朴な味にいたく感動したのであった。
 そして、この料理の名は何かと帝が老婆に尋ねたところ、まさかやんごとなきお方に「田舎の家料理、白菜と豆腐の塩炒めです」とはなんとも言えず、頭を捻った老婆、この料理は「翡翠白玉と申しますと申します」と答えた。
 帝は「なるほど、白菜の緑を翡翠、豆腐の白を白玉と見立てたわけか」とよりいっそう感服され、宮中でもこれを作らせるのであったという話である。

 これが料理の「翡翠白玉」の話である。
 
私がこの話を知ったのは南條竹則の『中華満喫』からであるが、この話を聞いたとき、この逸話と翡翠白菜のモチーフは、漢人の白菜と翡翠に対する信仰みたいなものがあって、白菜と翡翠は相通ずるものであるという思想が中国にあったことを示すのではと思った。

 念願の翡翠白菜を生で見たことで、私の目には自分の説が、なんとなく確かなもののように思えてきたのであった。