酒徒行状記

民俗学と酒など

江連力一郎のその後

Twitterで大輝丸事件と江連力一郎の話題が出ていて、気になって調べてみた。

大輝丸事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BC%9D%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
Wikipediaには現在、江連力一郎の項目はないが彼が主犯となった、大輝丸事件の項目に簡単な略歴が出ている。

「首謀者・江連(えづれ)力一郎(当時34歳)は茨城県結城町出身、海城中学卒・明治大学中退のちに入隊した陸軍軍曹である。彼は柔道、剣道、合気道など各武術をきわめた猛者で、段位は合計で30段に達していたという。」
「江連はのちに数度にわたる特赦に浴し、昭和8年(1933年)に出獄した。翌9年、マリー・ローザンヌ号金塊引揚事件に関与して再び捕らえられが無罪となった。後に満蒙開拓団に加わったとも言われるが、その後の消息は不明。」

気になったのは彼の略歴の「後に満蒙開拓団に加わったとも言われるが、その後の消息は不明。」という記述である。


如何にも豪快な壮士・大陸浪人の末路であるが、どうもこれは誤りで、彼は戦後も日本で生活をしていたようである。
というのも、昭和26年、大輝丸事件で行方不明となり起訴を免れていた二人の乗組員のうち、一人が戦後見つかって執行猶予つきの有罪判決を受けるのだけれども、その裁判の中で、江連も証人として出席しているのである。(朝日新聞1951年7月4日朝刊 「江連事件の真相はこうだ “海賊船ではない” 江連氏が証言。軍命で白露軍援助」)
江連はこの裁判で「(大輝丸は陸軍省に頼まれて武器の輸出に出かけたもので)戦闘行為だ」とし「国際状況からついにわれわれは海賊の汚名をきせられ処罰された」と述べている。
この江連の弁明の真偽はわからないが、頭山満などが弁護に当たったというのも、こうした背景があった可能性はある。
また昭和8年の出獄時には、右翼や壮士が刑務所に詰めかけて、彼の身柄の奪い合いをやったということがニュースになっており、右翼界の名士として知られていたようである。(朝日新聞 1930年11月4日東京/夕刊 「江連の争奪戦」)


出獄後の彼は、Wikipediaにも記載のある、昭和8年の「アンナ・ローザンヌ号」引き上げ詐欺事件の首謀者として裁判にかけられたものの、無罪となっている。
戦後は隠退蔵物資※の闇ブローカー的な仕事をしていたようである。
昭和22年山形農業会の隠匿物資の詐欺事件、東京都教育局事件、王大将事件などの詐欺事件の関係者として名前がたびたび上がっている。


昭和26年以降の彼の事跡はわからない。
大輝丸事件で彼が逮捕された北海道の手稲の光風館に、江連の娘が昭和15年ごろ芸者として働いていたという話があるが(郷土史ていね 第29号)、この娘の事跡も杳として知れない。


※旧日本軍が戦時中に民間から接収した貴金属類や軍需物資。大半が行方知れずとなった。M資金等の詐欺事件の小道具として使われる。