はじめに
カフェバー『BASECAMP』
のマスターA-sukeさんから「ハンティングで鹿を仕留めたら、妊娠していて腹に胎児(ハラコ)が入っていた。このままだと捨ててしまうけど、料理して食わないか?」とお誘いを受けた。
A-sukeさんは、実は高校時代の同級で同じ地学部部員だった男である。
卒業してからはあまり会わなかったが、彼が水道橋にアウトドア系のカフェバーを開いて以来、ちょくちょく飲みに寄らせてもらっている。彼が7年ほど前にハンティングを始めたと聞いて、先日は鳥撃ちの見学にもつれてってもらった。
さて鹿のハラコ。
鹿肉は、民俗調査やジビエの調査で分けていただいたり、あるいは年に一回の馬鹿鍋会*1でもよく頂くが、鹿のハラコは初めてである。
今回鹿を仕留めたA-sukeさんも7,8年くらいハンティングをやっているが、鹿のハラコを料理したことはないとのことであった。
これは一つ、日本と中国の鹿の胎児(ハラコ)の料理方法を研究してみようということになった。調べていくと大変長いブログ記事になったので、いくつか分割して掲載する
まずは日本編として、日本における利用法と料理から。
1.日本における利用(1)生薬とシカウチ神事
日本における鹿のハラコ利用は、婦人病の生薬としての利用が中心であった。
これは、後述する中国での生薬での利用と同じもので、山の利用や猟師への聞き書きをしたものでは
鹿の胎児を乾燥させたものは「血の道」に効くと言われ、実際に産後の肥立ちが悪く、寝床から離れられなかった女性にこれを煎じて飲ませたところ、起き上がれるようになった *2
というような記載をよく見ることができる。
こうした鹿の生薬としての利用は明治くらいまで盛んであったようで、民俗学者早川孝太郎は著書『猪鹿狸』で、
・猟師は一匹の鹿をとるよりも鹿の胎児をとる方が巨利を得ることができた
・鹿の胎児はサゴまたは胎籠りと呼ばれた
・その黒焼きは産後の肥立ちの悪い者には最高の妙薬となった
・明治初年頃、普通の鹿の1頭が50銭か70銭の時代に、サゴ一頭が75銭から1円くらいになった。
・サゴは旧暦の春三月にとれたものが一番効験があるとされ、5か月目くらい、鼠より心持大きいが、肌には鹿の子の毛が生えているくらいが効能があるとされた。
・また、親鹿の腹を割いて取り出したとき、掌に載せて眺める程度のサイズがよいともいう。
・桜が散り始めたころに獲れたものは、猫の子くらいの大きさになるが、このころのサゴは薬効は薄いとされ、あまり高価には売れなかった。なので狡い猟師は皮を剥いで一回り小さくして売ったという
・肉や角も薬になる。 (早川孝太郎「鹿の胎児」(『猪鹿狸』文一路社1942(昭和17)年刊を改変整理)
と記している。
鹿など動物の胎児は一般的には「ハラコ」「ハラゴ」と呼ばれるが、天竜川流域では早川が報告したように「サゴ」と呼ばれる。
そして、この地域では「シカウチ神事」という神事が行われている。
シカウチ神事は、陰暦正月から春にかけて行われる、豊作の予祝神事*3である。
この神事では、各集落の神社の境内で、杉の葉(または麦ワラ)や、山に白生するアオキバで、雌雄2頭の模造鹿をつくり、雌鹿の腹に丸餅をおさめ、この鹿を山から追い出す所作を行ってから、禰宜や宮人が模造の鹿を弓矢で射る。
模造の鹿は射られたのち、鹿の肉に見立てられた葉は神前に供せられ、また鹿の腹におさめられた丸餅を参集者が奪い合い、家に持ちかえって、その年の豊作を祈念するのである。*4
東栄町月(つき)集落ならびに古戸(ふっと)集落では
旧正月元日の午後、杉の葉を束ね、元の方には角に見立てた木の股を指しを指し、4本の脚を付けて、牡鹿・雌鹿の二体を作る。禰宜の祈祷の後、氏子たちが勢子となって「ショーイ、ホーイ、ホーイ」と声を上げ、獲物を出だすしぐさをする。
禰宜は、牡鹿の頭から尻へと順に3本矢を射た後、女鹿も同様に射る。
ついで矢を抜き、唱えごとをしながら三方に向けて抜いた矢を放つ。その後鹿を転ばし、葉を抜き取って神前に供え、また「アラをもらう」と言って葉を抜き合う。
月集落の場合はアラ(腸または内臓)となっているが、東栄町古戸(ふっと)では模造鹿の中に炊いた白米と生の白米を入れておき(これを鹿の胎児に見立てて「サゴ」)と呼ぶ)、弓で模造鹿を射った後、腹を割ってサゴを取り出し、炊いた白米は皆で食し、生米は境内の土を混ぜて包み分け、ハナノキ(樒)で拵えた鍬に結んで杉の葉とともに持ち帰ってエベス棚に供える。古戸ではこの行事を「種取り」とよんだ。*5
同じく東栄町小林では
最初に「一の宮の禰宜」が雌雄のシカを狙い2回シカを射る。同様にして「二の宮の禰宜」も2回シカを射る。その後、シカに付けられているオボコを取り、中に入っている小豆飯を九つに切り、最後に「九つ」と声を出す。オボコはムラの人や見学者に分けられておいしく頂いた。(シカウチ神事(小林))
雌鹿の腹には、1年を表す12個(閏年は13個)の丸餅が納めてある。雄鹿から射ち、雌鹿を射つ最後の矢が放たれると、待ち構えていた若者たちが雌鹿の丸餅を奪い合い、急斜面を滑り落ち行事は終了となる。シカウチ神事(能登瀬)
というように、いずれの地域でも雌鹿のサゴに見立てた米や餅を貰うことが、神事の重要な要素となっている。
これらのシカウチ神事では、コメや餅に代わっているため、鹿のハラコを実際にどのように調理していたかは不明であるが、日本においてもかつては、鹿のハラコになにかしらの霊性をみとめ、鹿のハラコを食する文化が存在していたことをうかがわせるものである。
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このように、かつての日本においては鹿のハラコ食は、現在のように禁忌とはされておらず、生薬あるいは食物として食べられていたと考えられる。
では、現在の日本における鹿のハラコ食はどのようになっているのであろうか?
次回、鹿の胎児(ハラコ)を料理する(2)-ジビエブームと鹿のハラコ料理 - 酒徒行状記
につづく。
*1:馬肉と鹿肉のすき焼き。横浜野毛のばかなべ 浜幸 (ばかなべはまこう)の名物。非常勤先の先生が年一回学生と先生とここで労ってくれるのである
*2:出典 『私、山の猟師になりました。:一人前になるワザをベテラン猟師が教えます! - 三好かやの - Google ブックス』
*3:豊作などの願い事を事前に模擬的に再現する呪術行事
*5:天竜川 : その風土と文化 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。なお、「(サゴを)小豆飯の団子」とする資料(シカウチ神事(古戸))もある。